Tai-Maxの日記

私たちは日々の生活の中で膨大な量の情報にさらされています。知りたいことがあればインターネットを使ってすぐに調べることができます。まさに情報社会です。 しかしそんな情報に対する私たちの態度はどうでしょうか。 簡単に手に入る情報を鵜呑みにしてしまったり、そもそもよく調べないまま上辺だけの知識に留まってはいないでしょうか。 情報に対して受動的ではなく、能動的な態度で挑もうというのが『思考日記』のテーマです。 ここでの内容はあくまで個人的見解なので、異論は受け付けます。 ​皆さんも一緒に思考してみてください。

世界中の人が1+1=5と言えば、それが正解となる!?

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「論理は常に正しい」と我々は考えている。

ではその論理とは何か。

なぜ論理的であることが正しいこととイコールの関係にあるのか。

論理的とはどのようなものか。

我々はこの論理的思考法に子どもの頃から馴染んでいる。

その一つが数学。1+1=2である。

ある前提が与えられると必然的に、機械的に答えが導き出されるとそれは論理的に正しいといわれる。

ただしいつもその規則が守られているという訳でもない。

論理は破られたりもする。

たとえば詩などが挙げられる。

でも実は破られていても、そこには背理的に論理が潜んでいる。

論理から逸脱しているがためにそれを美と捉えるからである。

つまり逸脱してもそこには論理が敷かれているのである。

では論理とはこの世界、もしくは我々の思考の基底にあるものなのか。

心理主義の人たちは論理法則は心理法則であると主張する。

確かにそういう一面もあるかもしれないが、

心理法則ということはそこには必ず時間性が内在している。

前提から帰結にたどり着くまでの心的過程としての時間がそこにはある。

でもこのことはどうも直感に反する。

論理に時間性があるだろうか。

カントは論理法則のことを「悟性および理性の形式的規則」と言ったらしいが、まさにそんな感じである。

前提から帰結までの道のりから時間性を吸い上げて残った物が論理という気がしてならない。

 

つまりやで、時間が流れているということは、変化があるということ。

変化があるということは、1+1は2の日もあれば4の日もあるということ。

それってあかんやん。

 

となると、論理とは「慣習化された思考」と言えるのではないだろうか。

習慣だと!?

習慣は変わり得る。不変ではない。

てことは論理は客観的に絶対真なるものではないことになる・・・?

 

 

心は幻

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言語学者が考えるコミュニケーションの過程として、まず物理的現象があり、それの像を浮かべ、それを符号化し音声を発し、受容した者がその音声を解読するという流れを考える。

時枝は言語過程説を唱えたことで有名である。

 

でもこの説には少し問題があるようにも思える。

時枝は像の概念化の過程を心的なモノとして正しく述べたが、像を作り出したモノは物理的な物であって、両者は対応するはずのものではないように考えられる。

時枝は、脳科学的・生理学的にも明らかと述べているが、物理的な物が空間にその存在を定位しなければならない一方で、心的なモノは空間に自身の位置を占めない。

つまり両者は永遠に交わることのない平行線である。

しかし現実には両者には対応関係がある。

(少なくともそう考えるように惑わされている。)

質の異なる両者が対応しているということは、両者ともに本当は物理的なモノであるか、非物理的なモノであるかという二択しかない。

ここで心とは何かについて考えてみる。

日本語の心は英語のheartと同様にその由来は心臓にある。

つまり人間が機能する上で最も重要な器官を表している。

(確かに脳が重要とも言え、おそらく解剖学的には脳の方が重要。しかし一般人にとっては、手を当てるとその動きが分かり、耳を近づけるとその音が聞こえる心臓の方がはるかに馴染みがあるためその重要度は脳を優ると思われる。)

そして我々の行動を司るような感情はこの心にあると考えられている。

一方、脳の機能と言えば、なにか難しいことを考えることである。

脳は思考のための場所で、心は感情のための場所としてすみ分けられているような文化があるように思える。

実際は、すべての知覚・感覚現象は脳内における神経細胞の発火であるのだが。

このような心と脳の二分化が上記の矛盾を引き起こしているのだと考える。

心は非物理的な物ではなくて物理的なモノである。

つまり心=脳であり、そこに物理的な神経細胞の発火が生じるのである。

心とは、感情や感覚などの一人称的なモノが生み出した幻である。

「私」はどこ?

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私の体は間違いなく今ここに存在している。

このことは、例えば蚊に刺された時に痒がる「私」もここにいることを意味するのか。

悲しいことがあったときに悲しむ「私」もここにいることを意味しているのか。

生理学的に言うと私の体はただの蛋白質、いわば肉にすぎない。

でもただの肉が悲しみを感じるのはおかしいように思える。

では人間とは、'モノ'としての体に、誰かしらの「私」が宿ったものなのだろうか。

それとも「私」と体を切り離して、心身二元論的に考えることがそもそも間違っているのだろうか。

でも言葉にもあるように、「私の体」と言っている時点で体を'モノ'として認識しているのではないだろうか。

もし「私」と体が分かつことのできない一体のものであるならば、「私」という言葉だけで「私の体」を意味するだろうし、またその逆の「体」というだけで「私の体」を意味することも出来るはず。

「私の」の「の」は所有格であることから、やはり部分的にも「体」を「私」が所有している'モノ'として認識していることは間違いないように思える。

では私がある絵画を見て感動するとき、その感動は心の中で起こっているのだろうか。

それとも絵画それ自体に感動があるのだろうか。

当然、同じ絵画を見て感動を覚えない人もいるわけだから、あなたが感じた感動は絵画そのものにではなく、あなたの中で起こっていると言えるだろう。

じゃあ絵画から感動が剥がれ落ちて、

当人の心の中にだけ感動が生じたということなのか。

でも心の中とはどこなのか。

確かに「心の奥底に秘めた思い」という表現通りに、奥底を実感することはある。でも厚さ30㎝くらいの人体のどこに奥底があるというのか。

心的な「私」と体を分けて議論してきたけど、

「私」が常に体を監視・操作しているという実感もまたあるわけではない。

日常生活の中では両者は区別される必要はないし、また我々も意識はしていない。

ただ一旦考え出すと、自分が非常に奇妙な存在(物体?)に思えてくる。

「私」はどこ?

ここに居るはずなのに永遠に行方不明な気がしてならない。

汚くも美しい汗

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今年もこの季節がやってきた!!

日本の夏といえば高校野球。

今年は101回大会だそうで、

俺の時は91回やったからちょうど10年前か。

でも今だに最後の試合はよく覚えているし、

試合だけじゃなくてベンチの雰囲気や配球、

それまでの練習とかもめっちゃ覚えている。

今でも野球部での集まりがちょいちょいあるけど、毎回やっぱり野球の話になる。

本気で語り合えば今でも泣けると思う。

それくらい濃い時間やった。

最後の試合が終わった後、ミーティング中にみんな泣いていたのを覚えている。

当然試合に負けて悔し泣きをしていた人もいたと思う。

でも悔しさというより、

もうこのユニフォームを着て練習できない、一緒に試合できないという寂しさからの涙やった人の方が多いはず。

 

甲子園だけが高校野球じゃない。

県予選から、更に言うと毎日の放課後の練習から高校野球。

一瞬一瞬が大切で貴重な時間。

すべてにドラマがある。

当時は勝つために、打つために、もっと上手くなるために毎日練習していた。

でも、一つの目標に向かって仲間と切磋琢磨しながら、互いを高め合うことの喜びを知ることが何より大切やと思う。

でもやっぱり勝つことも大事。

うん、どっちも大事。

 

普段はロジックばかりで物事を考えてしまうけど、

野球のことになると、目には見えない試合の流れみたいなものはやっぱり感じるし、その場の雰囲気から次の一球を決めることも少なくない。

負けていても逆転できそうな雰囲気がある時は実際に逆転できたり、逆に勝っていても気を緩めたら一気に逆転されそうな危険な雰囲気も実際に感じることがある。

目に見えないのにフィールドにいる全員が"それ"を感じる。

そして全員が感じていることを全員が知っている。

そういうものがスポーツにはある。

 

それともう1つ大事なコト。

野球のルールは全然知らんくせに、

いつも本気で支えてくれている親がいる。

ドロだらけのユニフォームを洗うのが

どんだけ大変か知ってる??

 

俺は知らん。

 

 

これだけ色んな思いが詰まってたら

そりゃ奇跡も起きるわな。

 

 

 

ちなみに俺の最終打席 ドン詰まりのセカンドフライ。

「苦手」を克服する最強の方法~俺流~

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突然ですが、 今の友達とどうして友達になりましたか。

今の恋人とどうして恋人になりましたか。

 

まあ色々理由はあるだろう。

中でもよく挙げられるのは共通の趣味である。

 人は何か共通点があると好印象を抱きやすくなる。

 

今回は、共通点のマジックを使って

英語嫌いの人を英語好きに変えて見せようと思う。

 

学校で習う科目の中で、英語が一番苦手という人や嫌いという人は必ずどの学校にも一定数いる。

でもよく考えてほしい。

英語は言語である。

言語は苦手とか嫌いとかいう形容詞では通常語られない。

学校で勉強しているが故に、

言語というよりもむしろ「科目」としての印象が強いのだろう。

 

たしかに単語や文法などを覚えるのは大変な作業である。

どうして英語はこんなにも日本語と違っているんだと感じてしまう。

文字、文法、語順、発音など日本語とは異なる点が多くある。

しかしよく考えてみると、実はかなり似ているということも分かる。

これは英語に限らず、世界中で話されているどの言語にも当てはまることである。

それはどの言語にも、品詞(名詞や動詞など)があり、

同じような文法項目(過去形、進行形、受け身、仮定法など)があり、

語順も大別すればSVO、SOV、VOSなど、数パターンしかないということだ。

これは驚くべきことではないだろうか。

なに?驚くべきことではないだと!?

いや、驚くべきことなのだ!!!

現在、世界には約7000の言語があると言われており、

その全てに上記のような特徴があると仮定されている。

すごくない?

なに?すごくないだと!?

いや、すごいのだ!!!

もし言語同士がお互いに全く異なっているのであれば、

そもそも翻訳など不可能である。

まずは、日本語と英語は全然違うという認識から、

似ているという感覚を身につけてみよう。

そうすると今度はパズルのように、両者の対応関係が見えてくるようになる。

 

相違点は際立ちが強いため見つけやすいが、

何事にも共通点を見出す癖をつけると、

ポジティブなフィードバックが得られるようになる。

 

 

俺って小栗旬に似てるよなー

雨乞いの儀式をすると100%雨が降る!?

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個人的に、スポーツは先天的な才能や遺伝に依る割合が大きいと思っている。

練習すればある程度までは上達しても、

どうしても超えられない壁というのはあるだろう。

たとえば今から私が無天老師様の修行を受けたところで、

100mを9秒台で走ることは不可能である。

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でもそれ以外のことなら、

本気を出せば出来るんじゃないかという気がしている。

 

本気を出せば。

 

 

ところで、南米アマゾンのある部族は

水不足になると雨乞いの儀式をするらしい。

 

そして、その成功率は100%だそうだ。

 

何でか分かる???

 

 

 

 

 

答えは

 

 

 

 

「雨が降るまで儀式を続けるから」

 

 

 

つまり、本気を出すというのは出来るまでやるということ。

 

 

 

 

さて、今日も本気でツチノコ探そ。

 

机の上に座らないで!!

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ドアストッパー

小学生の時、よく机の上に座っていて先生に注意された。

どうやら机は座るものではないらしい。

でもこの時の私にとって、机はある意味で「椅子」として機能していた。

というよりも、私が「椅子」としての機能を見出した。

ある特定の用途のために作られたものを、別の目的のために使うといった経験は誰にでもあるだろう。

上の例でいえば、本来は勉強したりご飯を食べたりといったことを想定して作られた机を、椅子替わりに使うということである。

他にも例を挙げると、

定規(=ハサミ)で紙を切ったり、

新聞紙(=武器)でゴキブリを叩いたり、

彼氏(=Amazon)にジュースを買ってきてもらったりなど、、、

 

いや、最後のは違うかもしれん。

 

 

このことを「アフォーダンス」という。

(*生態心理学で有名なギブソンが提唱した概念)

ギブソンの定義によると、アフォーダンスとは

「あるモノに対して人間が選択し得る行為の可能性」のことである。

ここで重要なのは人間の主体的なモノの捉え方である。

捉え方次第でモノは様々な機能を持つようになる。

そして、アフォーダンスは物理的な物だけに有効というわけではない。

「ピンチはチャンス」とよく言うが、これもその1つである。

 

常識をブチ壊して、様々な可能性と出会おう。

 

 

そういえば、そろそろトイレットペーパーなくなるわ。

あ、でも読み終わったジャンプがあるからまだ大丈夫か!