Tai-Maxの日記

私たちは日々の生活の中で膨大な量の情報にさらされています。知りたいことがあればインターネットを使ってすぐに調べることができます。まさに情報社会です。 しかしそんな情報に対する私たちの態度はどうでしょうか。 簡単に手に入る情報を鵜呑みにしてしまったり、そもそもよく調べないまま上辺だけの知識に留まってはいないでしょうか。 情報に対して受動的ではなく、能動的な態度で挑もうというのが『思考日記』のテーマです。 ここでの内容はあくまで個人的見解なので、異論は受け付けます。 ​皆さんも一緒に思考してみてください。

「私」はどこ?

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私の体は間違いなく今ここに存在している。

このことは、例えば蚊に刺された時に痒がる「私」もここにいることを意味するのか。

悲しいことがあったときに悲しむ「私」もここにいることを意味しているのか。

生理学的に言うと私の体はただの蛋白質、いわば肉にすぎない。

でもただの肉が悲しみを感じるのはおかしいように思える。

では人間とは、'モノ'としての体に、誰かしらの「私」が宿ったものなのだろうか。

それとも「私」と体を切り離して、心身二元論的に考えることがそもそも間違っているのだろうか。

でも言葉にもあるように、「私の体」と言っている時点で体を'モノ'として認識しているのではないだろうか。

もし「私」と体が分かつことのできない一体のものであるならば、「私」という言葉だけで「私の体」を意味するだろうし、またその逆の「体」というだけで「私の体」を意味することも出来るはず。

「私の」の「の」は所有格であることから、やはり部分的にも「体」を「私」が所有している'モノ'として認識していることは間違いないように思える。

では私がある絵画を見て感動するとき、その感動は心の中で起こっているのだろうか。

それとも絵画それ自体に感動があるのだろうか。

当然、同じ絵画を見て感動を覚えない人もいるわけだから、あなたが感じた感動は絵画そのものにではなく、あなたの中で起こっていると言えるだろう。

じゃあ絵画から感動が剥がれ落ちて、

当人の心の中にだけ感動が生じたということなのか。

でも心の中とはどこなのか。

確かに「心の奥底に秘めた思い」という表現通りに、奥底を実感することはある。でも厚さ30㎝くらいの人体のどこに奥底があるというのか。

心的な「私」と体を分けて議論してきたけど、

「私」が常に体を監視・操作しているという実感もまたあるわけではない。

日常生活の中では両者は区別される必要はないし、また我々も意識はしていない。

ただ一旦考え出すと、自分が非常に奇妙な存在(物体?)に思えてくる。

「私」はどこ?

ここに居るはずなのに永遠に行方不明な気がしてならない。