「私」はどこ?
私の体は間違いなく今ここに存在している。
このことは、例えば蚊に刺された時に痒がる「私」もここにいることを意味するのか。
悲しいことがあったときに悲しむ「私」もここにいることを意味しているのか。
生理学的に言うと私の体はただの蛋白質、いわば肉にすぎない。
でもただの肉が悲しみを感じるのはおかしいように思える。
では人間とは、'モノ'としての体に、誰かしらの「私」が宿ったものなのだろうか。
それとも「私」と体を切り離して、心身二元論的に考えることがそもそも間違っているのだろうか。
でも言葉にもあるように、「私の体」と言っている時点で体を'モノ'として認識しているのではないだろうか。
もし「私」と体が分かつことのできない一体のものであるならば、「私」という言葉だけで「私の体」を意味するだろうし、またその逆の「体」というだけで「私の体」を意味することも出来るはず。
「私の」の「の」は所有格であることから、やはり部分的にも「体」を「私」が所有している'モノ'として認識していることは間違いないように思える。
では私がある絵画を見て感動するとき、その感動は心の中で起こっているのだろうか。
それとも絵画それ自体に感動があるのだろうか。
当然、同じ絵画を見て感動を覚えない人もいるわけだから、あなたが感じた感動は絵画そのものにではなく、あなたの中で起こっていると言えるだろう。
じゃあ絵画から感動が剥がれ落ちて、
当人の心の中にだけ感動が生じたということなのか。
でも心の中とはどこなのか。
確かに「心の奥底に秘めた思い」という表現通りに、奥底を実感することはある。でも厚さ30㎝くらいの人体のどこに奥底があるというのか。
心的な「私」と体を分けて議論してきたけど、
「私」が常に体を監視・操作しているという実感もまたあるわけではない。
日常生活の中では両者は区別される必要はないし、また我々も意識はしていない。
ただ一旦考え出すと、自分が非常に奇妙な存在(物体?)に思えてくる。
「私」はどこ?
ここに居るはずなのに永遠に行方不明な気がしてならない。