Tai-Maxの日記

私たちは日々の生活の中で膨大な量の情報にさらされています。知りたいことがあればインターネットを使ってすぐに調べることができます。まさに情報社会です。 しかしそんな情報に対する私たちの態度はどうでしょうか。 簡単に手に入る情報を鵜呑みにしてしまったり、そもそもよく調べないまま上辺だけの知識に留まってはいないでしょうか。 情報に対して受動的ではなく、能動的な態度で挑もうというのが『思考日記』のテーマです。 ここでの内容はあくまで個人的見解なので、異論は受け付けます。 ​皆さんも一緒に思考してみてください。

「おいしい」の記憶

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俺だけ?

確かにあの時食べた海鮮丼はおいしかったって覚えてるけど、実際にどんな味だったかと聞かれると全然覚えていない。

小学生の時に行った北海道で食べた車海老、富士山で食べた金華豚、社長に連れて行ってもらった台中で一番高い焼肉屋のいちばん高い肉、どれも「めっちゃうまい!!」って言いながら食べてたけど、今となってはどんな味だったか全然覚えていない。

でもその時にした会話の内容とか、料理の盛り付けとかは覚えてる。

それらは視覚映像として残っている。

人間は情報の8割を視覚で処理しているとも言われているから、視覚情報が記憶にも残りやすいというのは納得できる。

味をちゃんと覚えている人はどうやって覚えてるんやろ。

視覚化してるんかな。

 

いや、そもそもホンマに覚えてるんか怪しいところやでな。

例えば味覚を痛覚に変えて考えてみるとどうなるだろう。

アノ時の痛みは、イマはもう感じていない。

痛みというのは原理的に痛い時だけ痛いのであって、痛くないときは痛くない。(あたりまえのことだが。)

つまり、痛いのは常にイマ・ココ(私の身体)だけである。

この「イマ・ココ」に閉じ込められている痛みを、「痛カッタ」と過去形で語ることは何を意味しているのだろうか。

頭の中でアノ時の「痛い」に遡って、イマの視点から回想しているのだろうか。

もしそうだとしたら「ココ」を離れている時点で、真の痛みと回想によって得た痛みとでは性質が異なることになる。

つまり、本来感じていた痛みとは別の痛みについて語っていることになる。

でもよく考えてみれば味覚や痛覚だけじゃなくて、「思い出す」という行為は全般的に過去のものを引っ張ってくるというより、新しい過去をその場で創り上げていると言えるような気がしてきた。

 

もっと考えたいけどちょっと疲れたからまた今度。

お腹すいたな、何食べよ。

どーせ忘れるし、めっちゃまずい料理作ってみよかな。