【思考日記】ヒヨコをミキサーにかけて失われるものは何か~対象と表象~
ある事象を理解することや知覚が完了するためには、一般的に客観的対象があり表象を通してその意味に至るといった経路が考えられている。しかし大森荘蔵は対象と表象の二元論的構図に異議を唱える。表象が対象から剥がれ落ちるのではなく、我々は対象そのものを立ち現れとして知覚しているという。なぜ二元論的な説明がこれほどに蔓延っているのかというと、1つの対象から様々な認識や理解が可能であるからだと大森は言う。つまり様々に変容を可能にする素の要素があるということを想定してしまうためである。この時、事物や事象の同一性ということが問題になってくる。昨日見たこのランプと今見ているこのランプは果たして同一のものなのだろうかと言った問いである。試験管の中にいるヒヨコを液体状にしてしまったときに何が失われるかと言った思考実験にも似ている。一般的に同一と考えられるための手段として、物質的同一性(原子や分子など)や時間空間的同一性(幾何学的な意味で)などが挙げられる。両者が一致していれば昨日見たランプも今見ているランプも同一であるといえるが、例えば100年後に観察すると老朽化が進んで同一ではないと反論する者もいる。しかしこの者は同一性の中に不変性という概念も入れてしまっている。大森の言う同一性とは、「同一体制」ということであり、同じ環境下で見るということが前提となっている。故にある1つの対象を観察していてもその見え方が異なったりするのは、観察する際の体制が異なっているからということになる。そこに表象を持ち込む意義はなく、ただ単に対象がありそこから直接的に立ち現れが生じるだけなのである。