どうして人は言葉を持ったのか
「どうして人は言葉を持ったのだろう?心が見えにくくなる。」
『 Why?』-YUI
人間の言語は動物のそれとは異なり、創造的(creative)であると考えられている。
新しく語彙を作ることも出来るし、またその組み合わせも自由であり、
学習したことがないような文さえも作ることができる。
(母親は自分の子どもに「クソババア」なんて言葉は教えないが、子どもはいつの間にかそれを連呼するようになる。)
しかし、この言語で語るという作業は、実は創造的と言うよりもむしろ
シームレスな(切れ目のない)事象を
限定していく(削り落としていく)作業ではないかという気もしてきた。
つまりこういうことである。
我々は常に何かしらの情報を知覚している。
たとえば音楽を聴いたり、景色が見えたり、足で布団の冷たい所を探したり。
目の前にはシームレスな(切れ目のない)「知覚の風景」が広がっている。
「感覚の世界」と言い換えても良い。
五感を通して入ってくる感覚だけの世界。
言語というものが一切存在しなければ、おそらく世界はそんな感じである。
その風景をより良く理解するため、もしくは他者に伝達するために分解していく作業が言語を以て語るということではないだろうか。
我々が「知覚の風景」を言葉で多くを語れば語るほど、「知覚の風景」は削られていき、その解釈の大部分は言語に委ねられるようになる。
その一方で言語による語りが少なければ、「知覚の風景」は依然として眼前に残っており、その解釈はそのままの「知覚の風景」に委ねられるため、時に曖昧になって誤解を引き起こしたりするのではないだろうか。
言語活動とは、創り上げるという創造的な作業と言うよりむしろ、
知覚によって得られる莫大な情報を削ぎ落としていく作業ではないだろうか。