心は幻
言語学者が考えるコミュニケーションの過程として、まず物理的現象があり、それの像を浮かべ、それを符号化し音声を発し、受容した者がその音声を解読するという流れを考える。
時枝は言語過程説を唱えたことで有名である。
でもこの説には少し問題があるようにも思える。
時枝は像の概念化の過程を心的なモノとして正しく述べたが、像を作り出したモノは物理的な物であって、両者は対応するはずのものではないように考えられる。
時枝は、脳科学的・生理学的にも明らかと述べているが、物理的な物が空間にその存在を定位しなければならない一方で、心的なモノは空間に自身の位置を占めない。
つまり両者は永遠に交わることのない平行線である。
しかし現実には両者には対応関係がある。
(少なくともそう考えるように惑わされている。)
質の異なる両者が対応しているということは、両者ともに本当は物理的なモノであるか、非物理的なモノであるかという二択しかない。
ここで心とは何かについて考えてみる。
日本語の心は英語のheartと同様にその由来は心臓にある。
つまり人間が機能する上で最も重要な器官を表している。
(確かに脳が重要とも言え、おそらく解剖学的には脳の方が重要。しかし一般人にとっては、手を当てるとその動きが分かり、耳を近づけるとその音が聞こえる心臓の方がはるかに馴染みがあるためその重要度は脳を優ると思われる。)
そして我々の行動を司るような感情はこの心にあると考えられている。
一方、脳の機能と言えば、なにか難しいことを考えることである。
脳は思考のための場所で、心は感情のための場所としてすみ分けられているような文化があるように思える。
実際は、すべての知覚・感覚現象は脳内における神経細胞の発火であるのだが。
このような心と脳の二分化が上記の矛盾を引き起こしているのだと考える。
心は非物理的な物ではなくて物理的なモノである。
つまり心=脳であり、そこに物理的な神経細胞の発火が生じるのである。
心とは、感情や感覚などの一人称的なモノが生み出した幻である。