Tai-Maxの日記

私たちは日々の生活の中で膨大な量の情報にさらされています。知りたいことがあればインターネットを使ってすぐに調べることができます。まさに情報社会です。 しかしそんな情報に対する私たちの態度はどうでしょうか。 簡単に手に入る情報を鵜呑みにしてしまったり、そもそもよく調べないまま上辺だけの知識に留まってはいないでしょうか。 情報に対して受動的ではなく、能動的な態度で挑もうというのが『思考日記』のテーマです。 ここでの内容はあくまで個人的見解なので、異論は受け付けます。 ​皆さんも一緒に思考してみてください。

あいさつする理由

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なぜどの言語にも挨拶があるのか。

新しい言語を学ぼうとすると、だいたい1ページ目にその言語のあいさつが一覧で載っている。

日本語の「こんにちは」は「今日は~ですね」という文が省略された形で、それが挨拶として定着するようになった。

英語では”How are you?”、

中国語では「你好」、

スペイン語では”Buenos dias”。

これらの言語だけを見ると、日本語とスペイン語は「日」に関する表現で、

英語と中国語は「人の健康状態」に関する表現となっている。他の言語ではどうだろう。

 

・フランス語 

 “Bonjour”(ボンジュール) 「良い日」

・韓国語 

 「アニョハセヨ」「安寧ですか」

・タイ語 

 「サワッディーカー」「吉祥の日」

・ドイツ語 

 “Guten Tag”「良い日となりますように」

 

ちょこっと調べてみたけど、やっぱり相手のことを想ったり、良い日・天気について表したものが多い。

でも現代では、元の意味を意味して使用するといったことは多くない。

”How are you?”って言って

”im not doing well. My throat hearts and also I have a terrible headache……”

みたいな感じで長々と返されても逆に困る。

じゃあどうして挨拶するのか。

 

挨拶はもしかしたら「私はここにいるよ」っていう

自分の存在を相手に知ってもらうためのものかもしれない。

ある意味、相手を察する「相察」でもいいんじゃね。

 

ちなみに、

「挨拶」は仏教の言葉で、ちょっと語源を調べてみると、

「挨」という漢字には「打つ」とか「押す」という意味があり、

「拶」には「近づく」「進む」という意味があるとのこと。

「お互いに押して、近づいて」という意味があるらしい~

 

ちなみに俺の上司に「挨拶は部下からするもの」と決めつけてるアホがおる

そのうち蹴っ飛ばしてやろうと思います。

「私」の誕生

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「私」という意識はどのようにして誕生するのか。

この世に生まれ落ちたとき、赤ちゃんは何を思っているのか。

おそらく、何も思っていない。

この時、赤ちゃんと世界はそれぞれ分離されていない1つの統合体である。

目に映る机や椅子といった存在物も一切区別されていない状態である。

いわば、赤ちゃん=世界の状態である。

顔の向きを変えればまた別の景色が見えるが、それもまた自身の別の在り方である。

つまり体を動かすたびに別の景色が見え、そのそれぞれが1つの世界であり、このとき世界は無数に存在している。

 

(あ~、表現するの難しいな。言いたいコト伝わってる?笑)

 

結論から言うと、「私」という意識は「私以外のモノ」との差異によって生まれてくるということ。

赤ちゃんは、生活の中で目に映っているモノが自身でコントロールできないことに気づく。手や足は自身でコントロールして動かすことが出来るのに、目に映っている机や椅子を浮かび上がらせることや、目の前にいる女性(母親)にミルクを持って来させることが出来ないことに気づく。

こうして徐々に統合体であった赤ちゃんと世界が切り離されていく。

これが進むと、世界の中のあらゆる物もそれぞれが個別の存在物であるという認識が生まれてくる。(ここで言語によるカテゴリー化が強力な手段として使用される。)

さらに進むと、世界からの差異として生まれた「私」が唯一無二の存在として自覚され始める。

従属的だった「私」が世界を乗っ取る瞬間である。

 

伝わった??笑

あーおもろ。

「現代の矛盾」

ビルは空高くなったが 
人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 
視野は狭くなり
お金を使ってはいるが 
得る物は少なく
たくさん物を買っているが 
楽しみは少なくなっている
家は大きくなったが 
家庭は小さくなり
より便利になったが 
時間は前よりもない
たくさんの学位を持っても 
センスはなく
知識は増えたが 
決断することは少ない
専門家は大勢いるが 
問題は増えている
薬も増えたが 
健康状態は悪くなっている
飲み過ぎ吸い過ぎ浪費し 
笑うことは少なく
猛スピードで運転し 
すぐ怒り
夜更かしをしすぎて 
起きたときは疲れすぎている
読むことは稀で 
テレビは長く見るが 
祈ることはとても稀である
持ち物は増えているが 
自分の価値は下がっている
喋りすぎるが 
愛することは稀であるどころか憎むことが多すぎる
生計のたてかたは学んだが 
人生を学んではいない
長生きするようになったが 
長らく今を生きていない
月まで行き来できるのに 
近所同士の争いは絶えない
世界は支配したが 
内世界はどうなのか
前より大きい規模のことはなしえたが 
より良いことはなしえていない
空気を浄化し 
魂を汚し
原子核を分裂させられるが 
偏見は取り去ることができない
急ぐことは学んだが 
待つことは覚えず
計画は増えたが 
成し遂げられていない
たくさん書いているが 
学びはせず
情報を手に入れ 
多くのコンピューターを用意しているのに
コミュニケーションはどんどん減っている
ファーストフードで消化は遅く
体は大きいが 
人格は小さく
利益に没頭し 
人間関係は軽薄になっている
世界平和の時代と言われるのに
家族の争いはたえず
レジャーは増えても 
楽しみは少なく
たくさんの食べ物に恵まれても
栄養は少ない
夫婦でかせいでも 
離婚も増え
家は良くなったが 
家庭は壊れている
忘れないでほしい 
愛するものと過ごす時間を
それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい 
すぐそばにいる人を抱きしめることを
あなたが与えることができるこの唯一の宝物には 
1円たりともかからない
忘れないでほしい
あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを
心を込めて
あなたの心からのキスと抱擁は
傷をいやしてくれるだろう
忘れないでほしい
もう逢えないかもしれない人の手を握り 
その時間を慈しむことを
愛し 
話し 
あなたの心の中にある
かけがえのない思いを
分かち合おう
人生はどれだけ
呼吸をし続けるかで
決まるのではない
どれだけ
心のふるえる瞬間があるかだ


ジョージ・カーリン

 

ただの引用

久しぶりに読み返してみた

贔屓は悪か!?

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あなたは学校の先生です。

生徒Aは毎日宿題もしてくるし、積極的に質問もしてくるし、努力しているのがわかる。

生徒Bは宿題もしてこなければ、授業中も寝ている。

でも、どちらの学生もテストでは同じ50点です。

あなたはどちらの学生が好きですか。

 

どう考えても学生Aですよね。

もちろん、テストの点数は50点でどちらも同じなので、

成績は同じにしなければならない。

でも、単純にどちらの人物が好きかと聞かれれば、当然Aとなる。

頑張っている人には「何とかしてあげたい」という気が働くのは当然のことである。

だから当然、学生Aの指導にはより熱が入る。

結果(成績)を贔屓するのは良くないかも知れないが、

過程(指導)を贔屓するのはむしろ当然である。

上の場合、学生Bが文句を言うのはナンセンスで、文句を言うくらいなら

自分も贔屓してもらえるように努力するべきである。

 

と、人生勝ち組の俺がほざいてみた。

(逃げるが勝ち)

 

俺のオトンと勝負しようぜ!!

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大学2年の夏休み、友達15人くらいで車を2,3台レンタカーして和歌山の白浜に遊びに行った。

「波乗りジョニー」を聴きながら、海沿いの道を走るという長年の夢もこの時叶えることが出来た。(めっちゃ道混んでて、徐行運転やったけど。。。)

海に着くなり、BBQしたり、泳いだり、ビーチバレーしたり、とにかく遊びまくった。

そして大阪に帰るために、車を運転していると、疲れがドット出てきた。

めちゃくちゃ眠い!!トンネルに入ると、あの変な色のライトのせいで余計に眠くなった。

途中パーキングで車停めて、別の車を運転していた友達と話していると、

結果「オトンってすごいな!!!」という結論に至った。

いつも長距離運転していても絶対に事故らへんし、駐車も一発で決める。

そして何よりあの安心感。

 

という訳で、今回は

ウチのオトン名言集

ベスト7を紹介

 

①「形あるものはみな壊れる」

俺が小学2年生のとき、悪ふざけで友達の耳当てを壊してしまった。

136%俺が悪いんやけど、その時の『女王の教室』みたいな先生にめちゃくちゃ怒られた。

当時俺はただのデブやったから何も言い返せなくて(119%俺が悪いんやから言い返せる立場じゃないけど)、仲の良い友達の物だっただけにかなり落ち込んでいた。

そんな時、オトンに「形あるものは皆壊れる。」という言葉を風呂場でチンコ出しながら教えてもらった。それで気が楽になり、俺は色々な物を破壊し始めるようにな、、、ちゃうちゃう!!諸行無常を受け入れ、楽しめるようになった。

 

②「みんなが自分の人生の主人公」

これも小学生の時の話。

喧嘩が強くて、足も速くて、おまけにドッヂボールもエース級だった俺は、女の子からも人気があり順風満帆な人生を歩んでいた。休み時間になるといつも俺の周りに大勢の友達が集まってきていた。そんな時、有頂天になっていた俺にオトンが二言。

「お前の人生ではお前が主人公。」

「でも他の人の人生ではお前は脇役。」

これでハッとした俺は、遠足のリーダーを譲ることにした。

もしこの言葉がなっかたら、俺はたくさんの友達を失っていたかもしれない。

 

③「遊びも勉強」

ある日、家でボーっとテレビを見ていた俺は、背後から近づいてくるオトンに気が付かなかった。俺はオトンに大きな紙袋を手渡され、開けてみたら、大人買いしたコナンの漫画がぎっしり入っていた。普段は「本読め、本読め」とうるさかったオトンが、勉強とは真逆の漫画を大量に買ってきてくれた。当時、俺は「勉強=学校の授業」と思い込んでいた。でもそれは間違い。自転車に乗れるようになること、友達と喧嘩する事、仲直りする事、学校を抜け出すこと、学校サボってプロ野球見に行くこと、ドッヂボール、鬼ごっこ、、、遊びも含めてすべてが勉強なんだと教えてくれた。よく「勉強だけが全てじゃない」とか言うけど、それは全くの逆で「すべてが勉強」だ。

この考え方が染みつくと、自然とあらゆることに興味を持つことが出来るようになる。

いわゆる「勉強」VS「遊び」の対立関係がなくなるわけだから、すべてが「勉強」であり且つ「遊び」となる。

 

④「フンバルトダストウンチ」

ある日、オトンがいきなり「おい、ドイツ語で「トイレはどこですか」って何て言うか知ってるか」と聞いてきた。

当然知るわけもなく首を横に振った。

すると、「じゃあドイツでトイレに行きたくなったらどうするつもりやねん!!」って言われて、俺もアホやったから「確かにそうやな」と思って教えを請うことにした。

オトンは初心者の俺にも聞き取れるように、ゆっくりと「フンバルトダストウンチ」と丁寧に発音してくれた。

ピュアな俺は中1の2学期くらいまで本気で信じてた。

だって、ッポイやん!? ドイツ語ッポイやん!?

ちなみにフランス語では「ションベンタラブー」らしい。

 

⑤「母さんだけには心配かけるな」

オトンは当然俺のことを1人の「息子」として見てくれている一方で、

1人の「男」としても見てくれている(ように感じる。)

だから「喧嘩には絶対負けるな」とか、小学生の俺に向かって「タバコ吸うなら隠れずに堂々と吸え」とか、俺が男らしく生きていけるように育ててくれた。

(男らしさ、女らしさが何かといったジェンダー論をする気はここでは全くないので、しょーもないツッコミはいれないように)

中でも1番俺の細胞に刻み込まれたのは「母さんだけには心配かけるな」という言葉。

とは言っても、オカンも俺のこと大好きやから完全に心配を払拭することはできないけど、それでもその心遣いだけは忘れないようにしようと思う。

 

⑥「根拠なき自信」

俺が野球をしていた時、すごいピッチャーがいるといつも弱気になったり、

大事な場面で打席が回ってくると「打てなかったらどうしよう」という不安に駆られて、結局満足のいく打席内容じゃないことが多い時期があった。

そんな時、友達と近所の公園で遊びでしか野球をしたことがないオトンが

「根拠はなくていいから、とにかく自信を持つことが大事」と言ってくれた。

それ以来、俺は自分に自信が持てるようになり、どんどん自分のことが好きになっていった。「俺は出来る。」という思い込みだけで、精神的に強くなれる。

だからテスト勉強をしていなくても、俺は出来る。はずだった、、、、

 

⑦「生かされるな、活きろ」

「どうして日曜日が嬉しいのか。休みだから。休みとは何か。学校や仕事がない日。いや、ちょっと待て。どうして休んでもいい日と休んではいけない日が予め定められているのか。そして、どうして我々はそれを当たり前のことかのように受け入れているのか。この世に生まれてきたからにはすべてが俺の時間のはず。日曜日だから嬉しいと感じるこの「嬉しさ」は真の嬉しさではなく、社会によって造られた「嬉しさ」である。こんな環境下で自分は本当に「生きている」と言えるか。むしろ「生かされている」んじゃないのか。もっとワクワクする事、自分が本当にしたいことにチャレンジすること、それこそが生きる、いや、活きることだ!!!」

 

確かこんなことを言うてた気がする。

でもその通りだと思う。

この話のおかげで俺は哲学的な物の見方に興味をもつようになったし、自分の人生を客観視して何事にも本気で取り組めるようになったし、後悔や挫折を経験しなくなった。

何が正しいかではなく、何が楽しいかで決める。

そうすればたとえ失敗したとしても後悔はなくなる。

挫折を経験しなくなったというのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも俺は

挫折すらも楽しめるくらい客観的に、そして楽観的に自分の人生を眺めることが出来るようになった。

 

どや。俺のオトンすごいやろ。

 

もうすぐ父の日。

たまには感謝の気持ちを伝えてみたり、

何かプレゼントしてみるのもええんちゃうか。

 

俺は何もせーへんけど。

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言葉の牢獄

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嬉しい、楽しい、気持ちがいい、愛しい、悲しい、寂しい、憎い、怖い・・・

感情を表す言葉はたくさんある。

それが故に、自分が今抱いている感情をどの言葉で言い表せばいいのか時々わからなくなる。

ある心理学の研究によると、もともと感情は快と不快の2種類だけだそうだ。

それが成長して言葉を覚えていくにつれて、その時々で感情をカテゴリー化するようになる。

言葉による感情のラベル付けが定着すると、本来流動的な性格を持つ感情が言葉の中に閉じこめられ、あたかもその感情が自分のものではないような感じにすらなってくる。

このプロセスを経てようやく感情は自分以外の他者と共有可能になる。

この共有された感情は私にも他者にも属さない、いわば社会的な感情である。

そしてこの社会的な感情が、私と他者で同じモノを指しているという保証はどこにもないし、確認する手段もない。

だいたい合っていればそれでいいのである。

 

ところで、もし今のように色々な感情を表す言葉がなく、

ただ快・不快の2種類だけしかなかったとしたら、

我々は互いに分かり合えないのだろうか。

 

それとも、その単純さのおかげで、より分かり合えるようになるのだろうか。

 

嗚呼、言葉って無限なようで有限。

犯人視点で川崎事件を考察『明日死ぬとしたら、、、』

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「明日死ぬとしたら、最後に何をしますか。」

このような問題は今までに何回も見てきたが、真剣に考えたことはなかった。

大きく分けて答えは2つに分かれると思う。

1つ目は「大切な人と一緒に過ごす」といった類の確実に自分を幸せに導くもの。

これはこれまでの人生経験ですでに既知となっていることであり、

おいしいものを食べるとか、楽しい場所に行くとかもここに含まれる。

もう1つは、今までにはなかったことを最後に経験したいという好奇心から来るもの。

ここで重要なのは、今までしてこなかった理由である。

チャンスはあったがしなかったのか、それとも物理的にできなかったのか。

後者の場合、その多くは倫理や法律といった規則に縛られていたが故にできなかったというのが多い気がする。

そして規則が設けられているということは、

その規則を破れば他人を脅かすことに繋がる場合が少なくない。

極端な例を挙げれば、強盗や殺人などである。

 

今回の川崎事件、肯定する気は全くないけど、犯人の動機を知る術ももはやなく推測の域を超えないけど、擁護する気も毛頭ないけど、被害者や遺族の気持ちを一切抜きにすれば、これまで規則に縛られて生きてきた自分を解放するための世の中に対する最後の抵抗だったと考えることもできる。

 

明日死ぬとしたら、何をしますか。

 

もしかしたら俺も規則を破るようなことをしてしまうかもしれない。