言葉の牢獄
嬉しい、楽しい、気持ちがいい、愛しい、悲しい、寂しい、憎い、怖い・・・
感情を表す言葉はたくさんある。
それが故に、自分が今抱いている感情をどの言葉で言い表せばいいのか時々わからなくなる。
ある心理学の研究によると、もともと感情は快と不快の2種類だけだそうだ。
それが成長して言葉を覚えていくにつれて、その時々で感情をカテゴリー化するようになる。
言葉による感情のラベル付けが定着すると、本来流動的な性格を持つ感情が言葉の中に閉じこめられ、あたかもその感情が自分のものではないような感じにすらなってくる。
このプロセスを経てようやく感情は自分以外の他者と共有可能になる。
この共有された感情は私にも他者にも属さない、いわば社会的な感情である。
そしてこの社会的な感情が、私と他者で同じモノを指しているという保証はどこにもないし、確認する手段もない。
だいたい合っていればそれでいいのである。
ところで、もし今のように色々な感情を表す言葉がなく、
ただ快・不快の2種類だけしかなかったとしたら、
我々は互いに分かり合えないのだろうか。
それとも、その単純さのおかげで、より分かり合えるようになるのだろうか。
嗚呼、言葉って無限なようで有限。