どうして人は言葉を持ったのか
「どうして人は言葉を持ったのだろう?心が見えにくくなる。」
『 Why?』-YUI
人間の言語は動物のそれとは異なり、創造的(creative)であると考えられている。
新しく語彙を作ることも出来るし、またその組み合わせも自由であり、
学習したことがないような文さえも作ることができる。
(母親は自分の子どもに「クソババア」なんて言葉は教えないが、子どもはいつの間にかそれを連呼するようになる。)
しかし、この言語で語るという作業は、実は創造的と言うよりもむしろ
シームレスな(切れ目のない)事象を
限定していく(削り落としていく)作業ではないかという気もしてきた。
つまりこういうことである。
我々は常に何かしらの情報を知覚している。
たとえば音楽を聴いたり、景色が見えたり、足で布団の冷たい所を探したり。
目の前にはシームレスな(切れ目のない)「知覚の風景」が広がっている。
「感覚の世界」と言い換えても良い。
五感を通して入ってくる感覚だけの世界。
言語というものが一切存在しなければ、おそらく世界はそんな感じである。
その風景をより良く理解するため、もしくは他者に伝達するために分解していく作業が言語を以て語るということではないだろうか。
我々が「知覚の風景」を言葉で多くを語れば語るほど、「知覚の風景」は削られていき、その解釈の大部分は言語に委ねられるようになる。
その一方で言語による語りが少なければ、「知覚の風景」は依然として眼前に残っており、その解釈はそのままの「知覚の風景」に委ねられるため、時に曖昧になって誤解を引き起こしたりするのではないだろうか。
言語活動とは、創り上げるという創造的な作業と言うよりむしろ、
知覚によって得られる莫大な情報を削ぎ落としていく作業ではないだろうか。
世界中の人が1+1=5と言えば、それが正解となる!?
「論理は常に正しい」と我々は考えている。
ではその論理とは何か。
なぜ論理的であることが正しいこととイコールの関係にあるのか。
論理的とはどのようなものか。
我々はこの論理的思考法に子どもの頃から馴染んでいる。
その一つが数学。1+1=2である。
ある前提が与えられると必然的に、機械的に答えが導き出されるとそれは論理的に正しいといわれる。
ただしいつもその規則が守られているという訳でもない。
論理は破られたりもする。
たとえば詩などが挙げられる。
でも実は破られていても、そこには背理的に論理が潜んでいる。
論理から逸脱しているがためにそれを美と捉えるからである。
つまり逸脱してもそこには論理が敷かれているのである。
では論理とはこの世界、もしくは我々の思考の基底にあるものなのか。
心理主義の人たちは論理法則は心理法則であると主張する。
確かにそういう一面もあるかもしれないが、
心理法則ということはそこには必ず時間性が内在している。
前提から帰結にたどり着くまでの心的過程としての時間がそこにはある。
でもこのことはどうも直感に反する。
論理に時間性があるだろうか。
カントは論理法則のことを「悟性および理性の形式的規則」と言ったらしいが、まさにそんな感じである。
前提から帰結までの道のりから時間性を吸い上げて残った物が論理という気がしてならない。
つまりやで、時間が流れているということは、変化があるということ。
変化があるということは、1+1は2の日もあれば4の日もあるということ。
それってあかんやん。
となると、論理とは「慣習化された思考」と言えるのではないだろうか。
習慣だと!?
習慣は変わり得る。不変ではない。
てことは論理は客観的に絶対真なるものではないことになる・・・?
心は幻
言語学者が考えるコミュニケーションの過程として、まず物理的現象があり、それの像を浮かべ、それを符号化し音声を発し、受容した者がその音声を解読するという流れを考える。
時枝は言語過程説を唱えたことで有名である。
でもこの説には少し問題があるようにも思える。
時枝は像の概念化の過程を心的なモノとして正しく述べたが、像を作り出したモノは物理的な物であって、両者は対応するはずのものではないように考えられる。
時枝は、脳科学的・生理学的にも明らかと述べているが、物理的な物が空間にその存在を定位しなければならない一方で、心的なモノは空間に自身の位置を占めない。
つまり両者は永遠に交わることのない平行線である。
しかし現実には両者には対応関係がある。
(少なくともそう考えるように惑わされている。)
質の異なる両者が対応しているということは、両者ともに本当は物理的なモノであるか、非物理的なモノであるかという二択しかない。
ここで心とは何かについて考えてみる。
日本語の心は英語のheartと同様にその由来は心臓にある。
つまり人間が機能する上で最も重要な器官を表している。
(確かに脳が重要とも言え、おそらく解剖学的には脳の方が重要。しかし一般人にとっては、手を当てるとその動きが分かり、耳を近づけるとその音が聞こえる心臓の方がはるかに馴染みがあるためその重要度は脳を優ると思われる。)
そして我々の行動を司るような感情はこの心にあると考えられている。
一方、脳の機能と言えば、なにか難しいことを考えることである。
脳は思考のための場所で、心は感情のための場所としてすみ分けられているような文化があるように思える。
実際は、すべての知覚・感覚現象は脳内における神経細胞の発火であるのだが。
このような心と脳の二分化が上記の矛盾を引き起こしているのだと考える。
心は非物理的な物ではなくて物理的なモノである。
つまり心=脳であり、そこに物理的な神経細胞の発火が生じるのである。
心とは、感情や感覚などの一人称的なモノが生み出した幻である。
「私」はどこ?
私の体は間違いなく今ここに存在している。
このことは、例えば蚊に刺された時に痒がる「私」もここにいることを意味するのか。
悲しいことがあったときに悲しむ「私」もここにいることを意味しているのか。
生理学的に言うと私の体はただの蛋白質、いわば肉にすぎない。
でもただの肉が悲しみを感じるのはおかしいように思える。
では人間とは、'モノ'としての体に、誰かしらの「私」が宿ったものなのだろうか。
それとも「私」と体を切り離して、心身二元論的に考えることがそもそも間違っているのだろうか。
でも言葉にもあるように、「私の体」と言っている時点で体を'モノ'として認識しているのではないだろうか。
もし「私」と体が分かつことのできない一体のものであるならば、「私」という言葉だけで「私の体」を意味するだろうし、またその逆の「体」というだけで「私の体」を意味することも出来るはず。
「私の」の「の」は所有格であることから、やはり部分的にも「体」を「私」が所有している'モノ'として認識していることは間違いないように思える。
では私がある絵画を見て感動するとき、その感動は心の中で起こっているのだろうか。
それとも絵画それ自体に感動があるのだろうか。
当然、同じ絵画を見て感動を覚えない人もいるわけだから、あなたが感じた感動は絵画そのものにではなく、あなたの中で起こっていると言えるだろう。
じゃあ絵画から感動が剥がれ落ちて、
当人の心の中にだけ感動が生じたということなのか。
でも心の中とはどこなのか。
確かに「心の奥底に秘めた思い」という表現通りに、奥底を実感することはある。でも厚さ30㎝くらいの人体のどこに奥底があるというのか。
心的な「私」と体を分けて議論してきたけど、
「私」が常に体を監視・操作しているという実感もまたあるわけではない。
日常生活の中では両者は区別される必要はないし、また我々も意識はしていない。
ただ一旦考え出すと、自分が非常に奇妙な存在(物体?)に思えてくる。
「私」はどこ?
ここに居るはずなのに永遠に行方不明な気がしてならない。
机の上に座らないで!!
小学生の時、よく机の上に座っていて先生に注意された。
どうやら机は座るものではないらしい。
でもこの時の私にとって、机はある意味で「椅子」として機能していた。
というよりも、私が「椅子」としての機能を見出した。
ある特定の用途のために作られたものを、別の目的のために使うといった経験は誰にでもあるだろう。
上の例でいえば、本来は勉強したりご飯を食べたりといったことを想定して作られた机を、椅子替わりに使うということである。
他にも例を挙げると、
定規(=ハサミ)で紙を切ったり、
新聞紙(=武器)でゴキブリを叩いたり、
彼氏(=Amazon)にジュースを買ってきてもらったりなど、、、
いや、最後のは違うかもしれん。
このことを「アフォーダンス」という。
(*生態心理学で有名なギブソンが提唱した概念)
ギブソンの定義によると、アフォーダンスとは
「あるモノに対して人間が選択し得る行為の可能性」のことである。
ここで重要なのは人間の主体的なモノの捉え方である。
捉え方次第でモノは様々な機能を持つようになる。
そして、アフォーダンスは物理的な物だけに有効というわけではない。
「ピンチはチャンス」とよく言うが、これもその1つである。
常識をブチ壊して、様々な可能性と出会おう。
そういえば、そろそろトイレットペーパーなくなるわ。
あ、でも読み終わったジャンプがあるからまだ大丈夫か!
地球に就職してみた。
人間とは何か。
何のために生きるのか。
この種の問いは生きている限り問い続けていきたいし、最終的には自分なりの答えを見つけたい。
でも、そもそもこの問いの立て方があまりよくないような気もしてきた。
そこで思いついた解決策は人間の生活圏を超えてみること。
生物時計はなぜリズムを刻むのか によると、普段の生活では時計に縛られた生活をしている我々だが、時計から隔離された環境で生活を強いられても、体内時計によっておおよその時間を把握することが可能であるとのことである。
これが可能なのは自然の周期(日の出と日没や季節の変化)に合わせて、人間がプログラムされているからである。
人間の中だけ見ても、様々な生理現象があえて時間をずらして起きるように設定されている。
寝ている間は体温や肝機能などが低下し、なるべく寝ることだけに集中するようにできていたりする。
すべての生理現象が同時に起きることを防いでいるのだ。
他の生物に目を向けてみると、マツヨイグサという植物は蛾やほかの夜行性の生物に受粉を助けてもらうために、日が落ちる頃に香りを放つ。
彼らのような夜行性の生物の生活リズムは昼行性の生物と反対であり、あたかも交替しながら地球という職場を24時間体制で管理しているかのようである。
このように、「人間」だけでなく、地球上の生物を全体的(ホリスティック)に見てみると、それぞれの種が地球という生活環境を維持するための要素となっており、独立した生き物ではなく、むしろ相補的な関係であるということが分かる。
ここに生物間のダイナミックな連鎖を感じる。
種類は全く違うのに(種類分けは人間が人為的に行っただけだが)ここまでくると我々人間さえも、地球を運営するための1つのコマのような気がしてくる。
「人間とは何か」という問いは、比喩的に言うと、企業全体の中の一事業について問うているだけで、そこから生産的な議論は生まれないし、答えが出たところでそれは単なる一要素でしかない。
それよりも、企業の一事業として、何をすべきか。
地球を円滑に運営していく上で、人間としてどう振る舞うべきかを考えた方が何かスッキリせーへん?
動物や昆虫は私たち人間の同僚だ。
ゴキブリは容赦なく殺すけど。
なぜ人は音楽に感動するのか
なぜ音楽は聴いていてこんなにも楽しいのか。
当然なかなか耳になじまない音楽もある。
感動する音楽とはどんな音楽か。
自分なりに考えてみた。
人間は音楽を聴く際に、初めて聞く音楽でもこれまでの経験から、次にどんな音が来るのかをだいたい予測することができる。
これはAメロからBメロ、そしてサビといった曲全体の構成についても言えるし、単音やコードのレベルでも言える。
つまりC→Gのコード進行がきたら次はAmかな、といった感じに。
『音楽の科学』によると、我々は自身が所属するコミュニティの音楽に慣れ親しむことで、後天的にこのような予測の能力を身につけていくという。
人間は自分の予測が当たると嬉しいと感じる。
つまり快の刺激を得る。
でも予測が当たりすぎると、それはもはや未知ではなく当たり前のものとなっていく。
そうすると今度は飽き始める。
退屈な音楽になり得る1つの要因として、曲の進行が簡単に予測できるということが挙げられる。ここで「感動する音楽」にあるもう1つの要素が裏切りである。
予測していた音とは違った音が聴こえたとき、人はその曲の未知性に興奮する。
これからどうなっていくのかと、まるで冒険するかのようにワクワクしてくる。
サスペンス映画や推理小説でも同じことが言える。
予測していた展開と違っていると、どういう結末になるのかとワクワクしてくる。
ある程度の予測が可能な状態で不意に裏切りが訪れる時、人はそのギャップに魅了される。この絶妙なバランスが「感動する音楽」を創り上げている。
あ、実は俺、寝る直前にコーヒー飲んでも
爆睡できるタイプやねん。
ギャップに魅了された?