後悔するのは人間だけ!?
哲学者、野矢茂樹の「語りえぬものを語る」の1章目に、
ネコをはじめ人間以外の言語をもたない動物は決して後悔することはないと書かれていた。
後悔は「すればよかった」あるいは「しなければよかった」と、
現実に起こったこととは別の仮想的なことを思う際に抱く感情である。
ヴィトゲンシュタインは、1つの事象に対して起こり得る(起こり得た)様々な可能性の総体のことを「論理空間」と呼んだ。
たとえば、「白い猫が走っている」という場合、
現実にはそのネコは走っているのであるが、
「寝ている」「逆立ちしている」といったことも論理的には可能である。
そしてこれらの仮想が可能であるためには、世界は分節化されていなければならないと野矢は言う。
上の例で考えると、「白い」「猫」「走っている」といった少なくとも3つの要素があり、それが故に「白い」→「黒い」「青い」etc、「猫」→「犬」「羊」etc
といった論理空間が開けるようになるという。
さらに、その分節化は我々の言語に依存しており、
故に言語をもたない動物は後悔をしないというのが野矢の主張である。
簡単に言うと人間の場合、「昨日あんなにお酒を飲まなければよかった」という後悔は
「昨日、たくさん飲んだ」という事実から開かれる論理空間の要素の1つであり、
その後悔が可能なのは「お酒を飲む」「お酒を飲まない」「お酒を注ぐ」などといった
様々な言語表現が代替可能だからということである。
一方、言語をもたない動物の場合、代替可能な表現がなく、彼らの世界は
1つの事実のみに閉じ込められている。故に後悔しないというのである。
ここで疑問に思ったのは、世界の分節化が言葉に依存しているということは、
たとえばまだ「逆立ちしている」という表現を習得していない人はその論理空間を開けないのじゃないかということだ。
論理である以上、個人の能力とは別に全員に平等に与えられていなければならない。
さらに、世界の認識を言葉ありきにしてしまうと、
あたかも世界はもとから分節されているような感じがして、人間による能動的な働きかけがないような気がする。
真に客観的な世界があることを想定しているのか。
そんなものはないというのが私の考えだ。
知らんけど。
さて続きを読もうか。