Tai-Maxの日記

私たちは日々の生活の中で膨大な量の情報にさらされています。知りたいことがあればインターネットを使ってすぐに調べることができます。まさに情報社会です。 しかしそんな情報に対する私たちの態度はどうでしょうか。 簡単に手に入る情報を鵜呑みにしてしまったり、そもそもよく調べないまま上辺だけの知識に留まってはいないでしょうか。 情報に対して受動的ではなく、能動的な態度で挑もうというのが『思考日記』のテーマです。 ここでの内容はあくまで個人的見解なので、異論は受け付けます。 ​皆さんも一緒に思考してみてください。

新しい習慣を取り入れ、新しい可能性に出会う

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我々の生活はあらゆる可能性で満ち溢れている。

今日は雨が降るかもしれない。

会社に行く途中で1万円札が落ちているかもしれない。

何気なく入った喫茶店で運命の出会いがあるかもしれない。

 

ヴィトゲンシュタインは人間の思考の限界を図るべく、

思考可能な範囲のことを「論理空間」と呼んだ。

この論理空間には、非現実的と思えることであっても言表できることであれば、

すべてこの中に含まれる。

例えば、「宇宙には地球が20個存在している」ということや、

「赤い色をした青い鳥」みたいなことも含まれる。

ヴィトゲンシュタインの意図するところは、この論理空間に含まれない物は人間の思考の域を超えたものであり、それが思考の限界であるということである。

簡単に言うと、自分の知らないことが何なのかを言うことは不可能だということである。

まあ当たり前のことだ。

しかし、この論理空間に含まれている事柄が全て均一の質を保っているかと言われればそうではない。

例えば、①飛行機が家に墜落する ②預金残高が勝手に増える の2つを比較すると、

どちらも一般的には「ありえない」が、その「ありえなさ」は同一ではない。

①が起こった場合、私は驚きながらもその事実を受け入れる。

しかし②が起こった場合、私は何かの間違いではないかと、その現象自体に疑問を投げかける。

もしかしたら誰かが入金したのではないか。とか、自分の記憶違いではないか、などである。

これら両者の現象に対する私の態度の違いはどこからきているのだろうか。

それは日々の生活習慣である。

我々の生活にはあらゆる可能性があるにも関わらず、そのほとんどが無視されている。

誰も家を出たところに大きな落とし穴があるなどとは思わないし、

道に1万円が落ちていることを期待しながら歩くこともない。

(ゲーセンではコインを探しながら歩くが、、、)

つまり、あらゆる可能性を含んだ論理空間のそのほとんどが

「死んでいる可能性」であり、生活に実践的な可能性は限られたものなのである。

しかし習慣が変われば、今は「死んでいる可能性」が蘇ることもあるし、

その逆も然りである。

新しい習慣を取り入れ、新しい可能性に出会おう。