【思考日記】二次元に在る三次元~世界が立体的に見えるのは思い込み!?~
実際には立体的なモノでも、平面的にそれを見て地続きにどこまでその輪郭をなぞっていけるかという遊びをしたことがありますか(笑)。ちょっと説明が難しい、、、
我々は3次元空間で生活を営んでいるため、立体的なモノの見方に慣れている。
でもどうして今見ているものが立体的であると分かるのか。ふつうに眺めているだけでは、その物は平面的にしか見えていないはずである。
大森荘蔵はこれを「知覚(perceive)」と「知覚的思い(conceive)」に分けて議論を展開していく。すべての「知覚」には「知覚的思い」が籠められているために立体的に見えるという。机の正面を見ている時でも、我々はその側面や背面を「知覚的思い」として「見ている」のである。でなければその机が立体的であるという認識には至らない。この「知覚的思い」は何も特別なことではなくて、物理や幾何学的事物を扱う時にも使われている。つまり実際に手に取り、その肌触りや色を確かめることはできないが(その意味で知覚と異なる)、我々は確かにその存在を認識している。
ここまでは納得のいく議論であると思われる。
でも例えば今までに見たことのないモノが目の前に現れたときにでも、おそらく我々はそれが立体的であると認識する。でも見たことがないのだから、それの背面や側面に関する情報はない。となれば「知覚的思い」が成立しないわけだから、我々はそれを
「知覚」していないということになるのだろうか。いや、でも確かにその正面は「知覚」している。しかし大森が言うには、「知覚的思い」のない「知覚」はあり得ないとのこと。この場合、どのような「知覚的思い」が「知覚」に籠められているというのか。おそらく「知覚」と「知覚的思い」が完全に一致しなければならないという制約はない。実際に細部まで気にする人はいない。ここで問題となっているのは、背側面に関する情報が0だということである。そこではやはり、これまでのその人の経験を統合したような創造力(メタファー的な能力)が機能するのだろうか。