【思考日記】『芸術の哲学』ハイデガーの解釈~感動の源泉~
カントをはじめとするハイデガー以前は、芸術を主観的な手法で捉えようとする試みが盛んであった。つまり芸術を目の前にしたときに生じる感動は、認識者が自身の過去の経験に照らし合わせることで生まれるといったような認識者を主体とした説明がなされていた。だけどこれに対してハイデガーは、芸術作品は認識主体とは独立した場所に存在していて、感動体験は作品そのものがもつ力だと説く。ハイデガーはまず道具とは何かについて説明する。道具とは何らかの目的を達成するために役に立つものである。靴は農家にとって有用性がある道具である。しかしその一方で農家自身はその有用性は自明のことと捉えており、靴を履くたびに靴について考えを巡らせることはない。つまりここには一種の信頼性もあると言える。普段は考えるにも値しない靴であるが、ひとたびそれが芸術として描かれると我々は改めて靴について思考を巡らすことになる。換言すると、日常生活では背景(図と地でいうところの地)となっていたものがキャンバスの中に収められると図として立ち現れてくるようになる。そこで初めて我々は立ち止まって考える。それ故、ハイデガーは芸術の本質を「存在者の心理・真実・真相の作品化」にあると考えるのである。
なるほど、主観的解釈主義の人たちに反して作品(客観的な対象)が感動の源と考えたハイデガーの解釈も非常に興味深い。私の解釈が間違っている可能性の方が高いが、もしハイデガーの考えるように作品そのものに感動の力があるのなら、なぜ観察者によって感動の内容が異なるのかっていう問題が出てくると思う。感動する人としない人がいるってことも含めて。皆さんはどう思いますか。