【思考日記】ヴィトゲンシュタインの言語批判
言語は語り得るものに対してはおよそ明晰に語り得るが、語りえないものにたいしては沈黙しなければならない。次元で考えるとわかりやすい。一次元は点の世界。二次元は線の世界。三次元は立体。アインシュタインの登場で時間が四次元に加わり、時間と空間を結びつける時空という言葉がうまれる。相対性理論。その後、量子論の考え方が生まれ11次元まであると想定されているが、我々が理解できるのは四次元まで。つまりここまでが言語で語れるもの。それ以上の抽象度の高いもの(平和、愛、善など)は語れない。語れるものは科学の領域、語れないものは哲学の領域として分けた。その分ける作業が分析哲学の仕事。美の全体像は語れないにしても、美の一側面は四次元以下の領域に落とし込んで語ることも可能だと考える。たとえば美は時間とともに移ろいゆくものとして考えれば、時間の次元で語れる。つまり科学と哲学の二値に分類できるものではなくて、グレイディエンスを成していると思われる。そもそも「語る」の定義は何か。産出された言語なのか、それとも思考可能性のことなのかで話は変わってくる。前者であれば、ウィトゲンシュタインは言葉の意味=使用(use)ということを強く主張しているので、useの中で意味は規定され得る。それはつまり語れることになってしまう。ウィトゲンシュタインは思考の限界を線引きしようとしていたことも考えるとおそらく後者であると思われるが、では「思考」とは何を指すのか。想像可能性か。だとしたら、美や善といった言葉が作られている時点で想像は可能になってはいないか。いや、想像はできてもそれを説明することはできないのでは。つまりそれを説明しようとするとトートロジカルになってしまう。説明するという行為は説明したい対象の上のレベルの言葉を使わなければならない。Aというものを説明するときにAは説明の中に入ってはいけない。したがって、「語る」とは「説明」のことであると考えられる。言葉で説明できるか否か、それが問題だ。