Tai-Maxの日記

私たちは日々の生活の中で膨大な量の情報にさらされています。知りたいことがあればインターネットを使ってすぐに調べることができます。まさに情報社会です。 しかしそんな情報に対する私たちの態度はどうでしょうか。 簡単に手に入る情報を鵜呑みにしてしまったり、そもそもよく調べないまま上辺だけの知識に留まってはいないでしょうか。 情報に対して受動的ではなく、能動的な態度で挑もうというのが『思考日記』のテーマです。 ここでの内容はあくまで個人的見解なので、異論は受け付けます。 ​皆さんも一緒に思考してみてください。

愛犬ぴっころ

ピッコロは私が高校2年生(だったかな?)の時に、部活から帰ってきたらなんか家におった。可愛いなーとは思ってたけど、当時はあんまり接し方がわからなかったのと、犬相手にデレデレしてる自分を家族とか他人に見られたくなくて若干気持ちを抑えてたと記憶している(笑)。最初は触ると噛むし吠えてばっかりだったけど、父さん母さんに懐き始めてだんだん可愛くなっていった。私がたまーに散歩に行くと、嬉しそうに舌出して笑ってくれて、ずっと一緒に堤防ダッシュしてた。近所の人にも可愛がられてて、それも嬉しかったし、ピッコロ自身が普段散歩している堤防で犬友達を作っていって、ピッコロのコミュニティが出来ていく様子もなんか微笑ましかった。(子どもが出来たらこんな感じなんだろうか?(笑)) でもそんなピッコロも年をとっていくにつれて病気も多くなったり、しまいには緑内障で片方の目が見えなくなった。手術するために目の周りの毛を剃られて、引っ掻かないように変なサンバイザーみたいなカバーされて、明らかにテンションも下がってるピッコロが可哀そうで仕方なかった。状態はさらに悪化して、最終的には両目とも見えなくなって義眼をすることになった。もともと犬は目がよくないとはいえ、まったく光のない世界ってどんな感じなんか想像しただけでも怖い。時間がたつにつれて探り探り歩けるようにはなったけど、案の定前みたいに走ったり石蹴りしたりは到底できない。なんで緑内障になんかなってしまったんだ。聞くところによると、特に柴犬はなりやすいらしい。なんでそんな生存にデメリットしかない要素が残ってるんだって思った。

義眼手術は安いものじゃない。確かに眼圧も上がって耐えられないくらいの痛みがあったかもしれないけど、所詮はペット。犬。言ってしまえば、高校2年までは存在すら知らなかった訳だし、正直いなくても全く困らない。って、大学院でくそ真面目に研究してた私は論理ばっかりを求めてか、非人道的な考えで割り切ってしまってたところも正直あった。そんなものは人間の勝手なエゴ(フロイト的な意味ではなくて)だと。ピッコロのことは大好きなのにもかかわらず。でもこの議論は難しいし決着はつかないと思う。まあ今思うことは、ピッコロは幸せだったんかなーてこと。まだ死んでないけど!!ピッコロにも産みの親がいるわけだけど、すぐ引き離されて私の家に来て。可愛がられてるとは言え、ピッコロ自身は可愛がってほしいなんて全く思ってないかも知れない。むしろ、寝てるのに触られて鬱陶しく感じてるかもしれない。動物なんだから人間の保護なくても生きていけるはずだし、仮にすぐ死んじゃったとしても、自然の中で親と暮らして(もしかしたら兄弟とかもいるかもしれないし)好きな時に寝て食べて散歩してってしてる方が本来的なその動物の生き方やと思う。本当は目が痛くても義眼なんてしたくなかったかも知れない。こんなこと考えてても仕方ないけどね。でも、勝手かも知れないけど、これこそ人間のエゴやけど、私はピッコロと出会えて幸せでした。ぴっころありがとう。長生きしてね。