【思考日記】死ぬのは「私」ではなく、いつも「他者」~死の対象化~
なんとなく、ドラゴンボール超の最終回を見直していた。最後は悟空とフリーザの共闘でジレンを倒してなかなか感動的だった。さらに、最後の悟空とベジータの戦闘シーンは、一番最初にベジータが地球にやってきた時を思わせる構えでかなりファンを楽しませてくれる演出だったと思う。第7宇宙が優勝して18号がみんなを生き返らせるように願いした結果、無事全ての宇宙が復活した訳だけど、ふと疑問に思ったことがある。生き返った者は自分が生き返ったことに気づくことは出来るのかということ。
別の問い方をすると、死んだ者は自分が死んだということを自覚できるのかということ。死ぬことは意識が途絶えることと定義すると、自分が死んだことを自覚することは論理的には不可能であることに気づく。おそらく予測としてならある程度は分かる。
自分の身体が弱ってきているのを感じて、そこから死は近いということを予測することは出来る。でも結局は予測に留まっているため、死は自覚できない。自覚するということは、自覚する対象を俯瞰的に捉えるということだから、メタ的な視点がどうしても必要になる。となれば、我々は死というものを経験しないと言えるのではないか。死に対する恐怖とは何であろうか。恐怖というのは未知の物事に対して抱く感情であるため、死への恐怖は何も特別なことはないはず。何が死を特別たらしめるのだろうか。今回の復活に関しても、生き返った後でも覚えているのは「死後」ではなくて「生前」のこと。つまり生き返ったと分かるのは第三者のみであって、当人は生前の記憶の続きを生き始めるわけだから、そもそも生き返ったということにも気づかないはず。このように考えると、死を経験するのは当人ではなくて第三者なのかも。なぜなら第三者のみが死を対象として認識できるから。