幽霊がいるところ
子どもの頃、よくUFOや恐怖映像などの番組を見ていた。
そのような番組で取り上げられるものは、一般的に現代の科学では証明不可能な現象とされている。
ところで「科学的」とはどういうことだろうか。
簡単に言うと、再現性がある、客観性があるということだろう。
誰がやっても同じ結果になれば、それは科学的であると言える。
その意味で、STAP細胞は科学的ではなかったのである。
この定義に従うと、怪奇現象などは再現性がないため非科学的となる。
なぜか世間では、科学的という見出しがつくと、何か権威があるもののように感じられ、一方で非科学的なものに対してはかなり否定的な態度がとられる。
非科学的であることは間違っているということなのか。
科学的に証明できないものは、存在しないことになるのだろうか。
そうではない、と我は思ふ。
ここで重要なのは調理方法を変えることである。
同じ魚料理でも、煮たり、焼いたり、蒸したり(?)することで、できあがるものは違ってくる。
科学以外の調理方法で現象を捌くことによって、それまでなかった味が出てくるのである。
ではどんな調理方法があるのだろうか。
その1つが現象学である。
現象学とは、、、
「人の意見とかどーでもいいから、とにかく自分が知覚したコトをそのまま信じましょうよ♬ 」というもの。
よくある例だが、ある旅人が森の中を歩いていたとする。
すると目の前に大きなヘビが現れたではないか!!!
ヒィィィィィィィ!!!!!!!!
でも近づいてよく見てみると、それはただのロープだった。
ここで問題。
「ヘビだ!!」と叫んだ時、それは誤りであって、本当は初めからロープだったのでしょうか。
フツーの人なら、旅人を怖がらせたものは初めからロープであり、ヘビに思えたのはその旅人の見間違いだったと言うだろう。
これは「科学的」な考え方である。
一旦ロープだと分かれば、それがヘビに見えることはもうない。
安定した知覚を得たのである。
しかし一方でこう答える人もいる。
叫び声を上げたときはまさにヘビが見えていたではないか。
結果としてそれはロープだったけれども、その瞬間だけはヘビだった、と。
これが「現象学的」な考え方である。
再現性もなく、客観的でもない。
むしろ逆である。
安定した知覚ではなく、一回限りの不安定な知覚を認めてしまうのである。
こんな考え方が世の中で通用するか!って思うやろ?
そう、通用しないのよ。
自分には見えていても、他の人に見えていなければそれは存在しないものとされる。
この世界は多数決で成り立ってるの。
でもさ、「幸せとは何か」と問われると、みんなそれぞれに「自分にとっての」幸せを口にするやんか。
なんで?
「幸せの定義は人によって違うから」
その通り。
もし、明日から『幸せ=お金』って掲げられて、「お前は金持ってないから幸せじゃない~」って言われたらめっちゃ腹立つやん。
ヘビのときは、個人の意見が却下されて大衆の意見であるロープが勝ったのに、
幸せの話になると、大衆の意見である『幸せ=お金』が却下されて、個人の意見が尊重される。
ここから言えるのは、我々が昔から語りたがっている「真善美」について、
科学的な考え方で平均値をとることはできないということ。
科学は万能ではない。
といって、科学を否定しているわけではない。
科学はとても便利である。
科学を使うとあらゆることが予測可能になる。
この予測可能性は生存において非常に重要である。
次になにが起こるか予測できていれば、捕食される可能性を下げることができる。
予測出来ないものに対しては我々は恐怖を感じる。
(だから、保険がビジネスとして成立する。)
怪奇現象も同じ。
その振舞いが予測できないから怖いのであって、
「はい、そろそろ女の子の声が聞こえて、肩が重くなって、次は椅子が浮きま~す」って分かっていれば何も怖くない。(いや、わりと怖いな。)
怪奇現象は科学の俎上では捌けない。
だから科学的に証明しようとする試み自体が初めから無駄。
かつて俺の幼馴染であるフッサールが言ったように、
「真の方法は、探究されるべき物事の性質に従う」んやと思う。
おわり。
「怒り」の放棄
じゃがりこには数種類の味がある一方で、上司という生き物は2種類しかいない。
怒る上司と怒らない上司である。
私は怒る上司が嫌いである。
なぜなら私は怒られるのが嫌いだからである。
つまり、怒る上司はアホである。
どうして上司は怒るのか。
では、私が最近怒ったことを例にとって、怒りについて考えてみよう。
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先日、お風呂場の水が逆流して溢れかえっていたので大家さんに助けを依頼した。すると大家さんは、近くにあった(俺の)ハンガーをいきなりグニャグニャして真っ直ぐにしやがった。
もはやハンガーの原型はなく、ただの針金と化していた。ハンガー自身もさぞびっくりしたことだろう。
大家さんはその針金の先で排水溝をガリガリしていたが、結局解決には至らなかった。大家は業者に電話して修理を依頼した後、針金を浴槽に放り投げ、そのまま立ち去って行った。
その時とてつもなく大きな声が響いた。
「オイ、ゴラァァ!!」
その声の主は俺だった。
オイラはその無礼な大家に「$△&〇!$#♡」と言ってやった。
でも大家は片付けもせずそのまま帰っていった。
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ここで俺が怒ったのは当然、相手の態度が気に入らなかったからである。しかし怒った結果、生まれたものは何もない。
感情をむき出しにした自分が少しすっきりしただけである。
そう、怒りは相手の為ではなく、自分の為のものである。
怒りは相手のモチベーションを下げ得るし、逆に反感を買うことだってあり得る。怒った自分も少しはスッキリするとはいえ、やはりモヤモヤ感は残る。次に会う時も少し気まずくなる可能性もある。
ということで、怒ってもいいことは何もない。
故に、怒る上司はアホである。
俺は怒りという感情を放棄する。
分かったら、さっさとこのブログSNSでシェアしろや!!!!!
嘘つきの才能
先日とあるバーでスペイン人、フランス人、ポーランド人の同僚とお酒を嗜んでいた。
すると、隣で完全にデキあがっていた台湾人のオジサンがいきなり
「君たちはなに人だ。」と絡んできた。
スペイン人の同僚はあまりそのオジサンと関わりたくなかったのか、ロシア人と嘘をついた。
するとオジサンは「俺はロシア語がわかるから、何か話してみろよ。」と煽ってきた。
(なんでロシア語わかんねん!!!笑)
当然話せるわけもなかったので、
ロシア生まれのメキシコ育ちとさらに嘘をついた。
メキシコではスペイン語が話されているので、それでオジサンは納得した様子だった。
私はというと、国籍、職業、年齢全て
ガッツリ本当のことを言ってしまった。
出来れば言いたくなかった。
でも嘘が思いつかなかったのである。
スペイン人の同僚のように、嘘で辻褄を合わせていくことに自信がなかったのである。
嘘とは、現実にはない事柄について語ることである。
個人的なイメージで言うと、
文字通り、地に足がついていない状態で歩くような感じである。
語る対象が現実世界にはないのでどこかフワフワした感じである。
私だって、単発的な嘘なら問題ない。
職業を聞かれて、大工さんですと答えることは出来る。
しかし、それをさらなる嘘で紡いでいくことが出来る気がしない。
地面から物を浮かせるだけでも難しいのに、さらにその浮かせた物の上に別の物を付け加えていくなんて出来そうもない。
嘘とは創造力である。
そういえば『サピエンス全史』でも、
ホモ・サピエンスが虚構の術を身につけたことで、他の人類のように淘汰されずに済んだということを言っていたような。。。
地球vs人類
人類はこれまで長い年月をかけていくつもの進化を経験してきた。
人類に限らず、今この地球に存在している生き物全てがこれまで様々な進化を遂げてきた。
進化と聞くと、どこか肯定的なイメージがあり、以前の「形」と比べてより優れた「形」にアップデートされるということがまず考えられるだろう。
では、どういう点で優れているのだろうか。
答えは単純で、当該の生活環境に適応できるかどうかである。
つまり、Aという生活環境でaという生き方が出来れば優れているとみなされる。そして生活環境がBになったとき、
bという生き方ができれば、それもまた優れており、生き続けることが出来る。
ここで重要なのは、生活環境のAとBを無視して、aとbだけを比較してもどちらが優れているかは言えないということである。
具体的な例を挙げよう。
小学生のとき(A)はドッヂボールが強い奴がモテる(a)が、中学生になる(B)と成績の良い奴(b)がモテるようになるとの同じである。
ドッヂボールが強い奴(a)と成績の良い奴(b)のどちらがよりモテるかを検討するためには、小学生(A)か中学生(B)かという生活環境を見なければならない。
(ちなみに私は自然淘汰された人間である。)
このように考えると、
進化とはアップデートではなく、ある特定の生活環境における安定性の確立と考えた方が妥当であるような気がしてくる。
つまり、生物にとって「生きる」とは地球という生活環境に対して常に受け身的であると言える。
一方で人類は、自身を環境に適応させるのではなく、環境を人類に適応させようとしている。
私の体重は63キロです。
先日台湾人の友達とご飯を食べに行った。
私がデザートを選んでいると、その友達は今はダイエット中だから遠慮しておくとのことだった。
特に太っているわけではないので、
どうしてダイエットをしているのか聞くと、
「去年より体脂肪率が4%も増えて、今は体重が58キロあるから」と返ってきた。
びっくりした。
自分の体重を何のためらいもなく口にした。
日本では、特に女性は自分の体重を他人に言ったりしないよ、と言うと、「でも私の体重は他の人には関係ないですよね」と返ってきた。
その通りだ。
日本では着る服などもダサければバカにされることが多くある。
(ユニクロでええじゃないか!!)
でも台湾では、みんな自分で好きな服を着ているのだから、他人のファッションに口出しする筋合いはないという。
同じアジアに属していながら考え方は西洋寄りである。
日本も、価値観は大事といいながらも、その「価値観」は個人のものではなく、社会的なものが多いように感じる。
周りの目を気にしながら、余計なものを削り落とした「価値観」である。
もっと自由に。
で、あなたは何キロ?
「おいしい」の記憶
俺だけ?
確かにあの時食べた海鮮丼はおいしかったって覚えてるけど、実際にどんな味だったかと聞かれると全然覚えていない。
小学生の時に行った北海道で食べた車海老、富士山で食べた金華豚、社長に連れて行ってもらった台中で一番高い焼肉屋のいちばん高い肉、どれも「めっちゃうまい!!」って言いながら食べてたけど、今となってはどんな味だったか全然覚えていない。
でもその時にした会話の内容とか、料理の盛り付けとかは覚えてる。
それらは視覚映像として残っている。
人間は情報の8割を視覚で処理しているとも言われているから、視覚情報が記憶にも残りやすいというのは納得できる。
味をちゃんと覚えている人はどうやって覚えてるんやろ。
視覚化してるんかな。
いや、そもそもホンマに覚えてるんか怪しいところやでな。
例えば味覚を痛覚に変えて考えてみるとどうなるだろう。
アノ時の痛みは、イマはもう感じていない。
痛みというのは原理的に痛い時だけ痛いのであって、痛くないときは痛くない。(あたりまえのことだが。)
つまり、痛いのは常にイマ・ココ(私の身体)だけである。
この「イマ・ココ」に閉じ込められている痛みを、「痛カッタ」と過去形で語ることは何を意味しているのだろうか。
頭の中でアノ時の「痛い」に遡って、イマの視点から回想しているのだろうか。
もしそうだとしたら「ココ」を離れている時点で、真の痛みと回想によって得た痛みとでは性質が異なることになる。
つまり、本来感じていた痛みとは別の痛みについて語っていることになる。
でもよく考えてみれば味覚や痛覚だけじゃなくて、「思い出す」という行為は全般的に過去のものを引っ張ってくるというより、新しい過去をその場で創り上げていると言えるような気がしてきた。
もっと考えたいけどちょっと疲れたからまた今度。
お腹すいたな、何食べよ。
どーせ忘れるし、めっちゃまずい料理作ってみよかな。