言葉が思考を支配する!?
これまで私は、話す言語が違っていても、相手の言ったことを処理する方法は人類普遍的なものであると思っていた。
しかし中国語のような声調言語(同じ音でも発声の仕方によって意味が変わる言語)はどうも少し違った言語処理をしているように感じる。
*声調言語*
「媽、嘛、馬、罵」は全て「マー」という音であるが、イントネーションで意味が変わる。
例えば日本語の場合、食べ物の話をしていて「はし」という音が聴こえると、それはほぼ間違いなく「箸」のことである。
車の運転をしている時に「はし」の音が聴こえると、「橋」のことであるとすぐに分かる。
実際に関西と関東では発音が逆になるが、意味処理はおそらく正常に行われる。
しかし中国語の場合、正しく発音をしないと全く通じないのである。
先日友達と旅行先で換金の話をしていた時に、私は「ドゥイフアン」(換金)と言ったのだが、その友人は全く理解していない様子であった。
そのあと正しい発音をしてもらうと、大して間違っていたようには聞こえない。
仮に間違っていたとしても、それまでお金の話をしていたという文脈がある。
にも拘わらず伝わらなかった。
日本人であれば音がはっきりと認識できなかった場合、文脈を参照して予測しようとするが、ここではその態度はうかがえない。
正しい発音が聴こえてくるのを待っているかのようである。
これは言語の違いなのか、言語の違いが生んだ習慣なのか。