チンパンジー、言葉いらないってよ
人間が言語を操ることができるのは主に、様々な音声を作り出せる生態的構造を持っていたという生理学的な条件と、それらを識別できる知性の2つの条件が備わっていたからと言われている。
たとえば鳥も様々な音を操ることができるが、知性が備わっていないため人間のような言語活動はできないし、知性の高いチンパンジーなどは逆に様々な音を生み出す身体の形態を有していない。
しかし実験と言う人為的な環境が与えられれば、チンパンジーでも言語っぽいものを使用することができるということは確認されている。
それは音声の代わりに、物を記号として使用するという環境である。
チンパンジーが自然な環境の下で言語を使用しないのは、彼らの生活には言語による世界の分化は必要ないからではないかと思われる。
言語は世界をより細かく分化し、詳細に語ることを可能にする道具である。
つまりそのことを遂行するにはより認知的なコスト(負荷)がかかってくる。
種によって生活の条件は異なっており、人間以外の生物にとっては、人間言語のような世界の処理の仕方は恐らくメリットよりもデメリットの方が大きいのであろう。
(↑↑マジでオススメ!!)
進化が種の保存や繁栄を目的としたモノであると仮定すれば、5つの感覚器官に加え言語をも操り、それによって虚構の世界を考えることも可能とした人間は恐らく一番弱い生命体なのかもしれない。
換言すると、生き残るためにはそれだけ多くの情報を処理しなければならないということだからだ。
他の生物に目を向けると、専ら少数の感覚器官のみが発達しているというのが少なくない。(さらに、人間には備わっていない能力を持った動物もいる。たとえば、マムシは赤外線が感知できたり、蜂は磁場を感知できたりする。)
これはつまり、彼らの生存にとって処理する情報量が少なくて良いということを意味しているのではないだろうか。
個人的には、もうちょっと味覚が発達してほしい。。。
ワインの味、全部一緒やん、、、
そろそろ「かわいい」の定義をちゃんとしませんか
この前、居酒屋に行ってビール注文するときに、
ビールサーバーで注文したほうが安くなると言われたのでそうしてみた。
ビールを注ぎ終わると、蛇口のところに少しビールの水滴が残っていて、それが落ちるか落ちないかという状況だった。
それを見ていた女の子が一言。
「かわいい💛」
は!?
確かに前から「かわいい」の定義はそろそろちゃんとしたほうが良いという気はしていたので、白黒はっきりさせたいと思います。
完全主観です!!!
①かわいい Level. 100%
間違いない!
②かわいい Level. 26%
全然可愛くない。
③かわいい Level. 93%
実は有村架純が通っていた高校と野球の練習試合をしたことがあります。
すげーやろ!! ん?
④かわいい Level. 11%
国民を敵に回してしまったか、、!?
演技終了後の表情まで練習してそうで苦手。。。すまんの
⑤かわいい Level. 15%
ラスベガスで首から下おっさんの”キティちゃん”を目撃してからトラウマ。
⑥かわいい Level. 73%
「物」もかわいいの対象ってのがおもしろいよね。
⑦かわいい Level. 51%
微妙~
キャッチ&リリース...&キャッチ くらいかな
⑧かわいい Level. 3%
もはや無。
⑨かわいい Level. 6%
ちょっとUP
「動き」もかわいいの対象になるから難しいよね。
⑩かわいい Level. 0%
もはや可哀そう。
というわけで、かわいいLevel最下位は
みなさんの予想通り「ビニール傘」でした。
やっぱり「かわいい」ってよくわからんな。
そもそも進化の過程でなんで「かわいい」と思う感情が必要になったのかがわからん。
生物から物まで、様子から動きまで、すべてに対して使われる「かわいい」。
全然かわいくない哲学的問題を孕んでいやがった。
どうして人は言葉を持ったのか
「どうして人は言葉を持ったのだろう?心が見えにくくなる。」
『 Why?』-YUI
人間の言語は動物のそれとは異なり、創造的(creative)であると考えられている。
新しく語彙を作ることも出来るし、またその組み合わせも自由であり、
学習したことがないような文さえも作ることができる。
(母親は自分の子どもに「クソババア」なんて言葉は教えないが、子どもはいつの間にかそれを連呼するようになる。)
しかし、この言語で語るという作業は、実は創造的と言うよりもむしろ
シームレスな(切れ目のない)事象を
限定していく(削り落としていく)作業ではないかという気もしてきた。
つまりこういうことである。
我々は常に何かしらの情報を知覚している。
たとえば音楽を聴いたり、景色が見えたり、足で布団の冷たい所を探したり。
目の前にはシームレスな(切れ目のない)「知覚の風景」が広がっている。
「感覚の世界」と言い換えても良い。
五感を通して入ってくる感覚だけの世界。
言語というものが一切存在しなければ、おそらく世界はそんな感じである。
その風景をより良く理解するため、もしくは他者に伝達するために分解していく作業が言語を以て語るということではないだろうか。
我々が「知覚の風景」を言葉で多くを語れば語るほど、「知覚の風景」は削られていき、その解釈の大部分は言語に委ねられるようになる。
その一方で言語による語りが少なければ、「知覚の風景」は依然として眼前に残っており、その解釈はそのままの「知覚の風景」に委ねられるため、時に曖昧になって誤解を引き起こしたりするのではないだろうか。
言語活動とは、創り上げるという創造的な作業と言うよりむしろ、
知覚によって得られる莫大な情報を削ぎ落としていく作業ではないだろうか。
世界中の人が1+1=5と言えば、それが正解となる!?
「論理は常に正しい」と我々は考えている。
ではその論理とは何か。
なぜ論理的であることが正しいこととイコールの関係にあるのか。
論理的とはどのようなものか。
我々はこの論理的思考法に子どもの頃から馴染んでいる。
その一つが数学。1+1=2である。
ある前提が与えられると必然的に、機械的に答えが導き出されるとそれは論理的に正しいといわれる。
ただしいつもその規則が守られているという訳でもない。
論理は破られたりもする。
たとえば詩などが挙げられる。
でも実は破られていても、そこには背理的に論理が潜んでいる。
論理から逸脱しているがためにそれを美と捉えるからである。
つまり逸脱してもそこには論理が敷かれているのである。
では論理とはこの世界、もしくは我々の思考の基底にあるものなのか。
心理主義の人たちは論理法則は心理法則であると主張する。
確かにそういう一面もあるかもしれないが、
心理法則ということはそこには必ず時間性が内在している。
前提から帰結にたどり着くまでの心的過程としての時間がそこにはある。
でもこのことはどうも直感に反する。
論理に時間性があるだろうか。
カントは論理法則のことを「悟性および理性の形式的規則」と言ったらしいが、まさにそんな感じである。
前提から帰結までの道のりから時間性を吸い上げて残った物が論理という気がしてならない。
つまりやで、時間が流れているということは、変化があるということ。
変化があるということは、1+1は2の日もあれば4の日もあるということ。
それってあかんやん。
となると、論理とは「慣習化された思考」と言えるのではないだろうか。
習慣だと!?
習慣は変わり得る。不変ではない。
てことは論理は客観的に絶対真なるものではないことになる・・・?
心は幻
言語学者が考えるコミュニケーションの過程として、まず物理的現象があり、それの像を浮かべ、それを符号化し音声を発し、受容した者がその音声を解読するという流れを考える。
時枝は言語過程説を唱えたことで有名である。
でもこの説には少し問題があるようにも思える。
時枝は像の概念化の過程を心的なモノとして正しく述べたが、像を作り出したモノは物理的な物であって、両者は対応するはずのものではないように考えられる。
時枝は、脳科学的・生理学的にも明らかと述べているが、物理的な物が空間にその存在を定位しなければならない一方で、心的なモノは空間に自身の位置を占めない。
つまり両者は永遠に交わることのない平行線である。
しかし現実には両者には対応関係がある。
(少なくともそう考えるように惑わされている。)
質の異なる両者が対応しているということは、両者ともに本当は物理的なモノであるか、非物理的なモノであるかという二択しかない。
ここで心とは何かについて考えてみる。
日本語の心は英語のheartと同様にその由来は心臓にある。
つまり人間が機能する上で最も重要な器官を表している。
(確かに脳が重要とも言え、おそらく解剖学的には脳の方が重要。しかし一般人にとっては、手を当てるとその動きが分かり、耳を近づけるとその音が聞こえる心臓の方がはるかに馴染みがあるためその重要度は脳を優ると思われる。)
そして我々の行動を司るような感情はこの心にあると考えられている。
一方、脳の機能と言えば、なにか難しいことを考えることである。
脳は思考のための場所で、心は感情のための場所としてすみ分けられているような文化があるように思える。
実際は、すべての知覚・感覚現象は脳内における神経細胞の発火であるのだが。
このような心と脳の二分化が上記の矛盾を引き起こしているのだと考える。
心は非物理的な物ではなくて物理的なモノである。
つまり心=脳であり、そこに物理的な神経細胞の発火が生じるのである。
心とは、感情や感覚などの一人称的なモノが生み出した幻である。
「私」はどこ?
私の体は間違いなく今ここに存在している。
このことは、例えば蚊に刺された時に痒がる「私」もここにいることを意味するのか。
悲しいことがあったときに悲しむ「私」もここにいることを意味しているのか。
生理学的に言うと私の体はただの蛋白質、いわば肉にすぎない。
でもただの肉が悲しみを感じるのはおかしいように思える。
では人間とは、'モノ'としての体に、誰かしらの「私」が宿ったものなのだろうか。
それとも「私」と体を切り離して、心身二元論的に考えることがそもそも間違っているのだろうか。
でも言葉にもあるように、「私の体」と言っている時点で体を'モノ'として認識しているのではないだろうか。
もし「私」と体が分かつことのできない一体のものであるならば、「私」という言葉だけで「私の体」を意味するだろうし、またその逆の「体」というだけで「私の体」を意味することも出来るはず。
「私の」の「の」は所有格であることから、やはり部分的にも「体」を「私」が所有している'モノ'として認識していることは間違いないように思える。
では私がある絵画を見て感動するとき、その感動は心の中で起こっているのだろうか。
それとも絵画それ自体に感動があるのだろうか。
当然、同じ絵画を見て感動を覚えない人もいるわけだから、あなたが感じた感動は絵画そのものにではなく、あなたの中で起こっていると言えるだろう。
じゃあ絵画から感動が剥がれ落ちて、
当人の心の中にだけ感動が生じたということなのか。
でも心の中とはどこなのか。
確かに「心の奥底に秘めた思い」という表現通りに、奥底を実感することはある。でも厚さ30㎝くらいの人体のどこに奥底があるというのか。
心的な「私」と体を分けて議論してきたけど、
「私」が常に体を監視・操作しているという実感もまたあるわけではない。
日常生活の中では両者は区別される必要はないし、また我々も意識はしていない。
ただ一旦考え出すと、自分が非常に奇妙な存在(物体?)に思えてくる。
「私」はどこ?
ここに居るはずなのに永遠に行方不明な気がしてならない。
汚くも美しい汗
今年もこの季節がやってきた!!
日本の夏といえば高校野球。
今年は101回大会だそうで、
俺の時は91回やったからちょうど10年前か。
でも今だに最後の試合はよく覚えているし、
試合だけじゃなくてベンチの雰囲気や配球、
それまでの練習とかもめっちゃ覚えている。
今でも野球部での集まりがちょいちょいあるけど、毎回やっぱり野球の話になる。
本気で語り合えば今でも泣けると思う。
それくらい濃い時間やった。
最後の試合が終わった後、ミーティング中にみんな泣いていたのを覚えている。
当然試合に負けて悔し泣きをしていた人もいたと思う。
でも悔しさというより、
もうこのユニフォームを着て練習できない、一緒に試合できないという寂しさからの涙やった人の方が多いはず。
甲子園だけが高校野球じゃない。
県予選から、更に言うと毎日の放課後の練習から高校野球。
一瞬一瞬が大切で貴重な時間。
すべてにドラマがある。
当時は勝つために、打つために、もっと上手くなるために毎日練習していた。
でも、一つの目標に向かって仲間と切磋琢磨しながら、互いを高め合うことの喜びを知ることが何より大切やと思う。
でもやっぱり勝つことも大事。
うん、どっちも大事。
普段はロジックばかりで物事を考えてしまうけど、
野球のことになると、目には見えない試合の流れみたいなものはやっぱり感じるし、その場の雰囲気から次の一球を決めることも少なくない。
負けていても逆転できそうな雰囲気がある時は実際に逆転できたり、逆に勝っていても気を緩めたら一気に逆転されそうな危険な雰囲気も実際に感じることがある。
目に見えないのにフィールドにいる全員が"それ"を感じる。
そして全員が感じていることを全員が知っている。
そういうものがスポーツにはある。
それともう1つ大事なコト。
野球のルールは全然知らんくせに、
いつも本気で支えてくれている親がいる。
ドロだらけのユニフォームを洗うのが
どんだけ大変か知ってる??
俺は知らん。
これだけ色んな思いが詰まってたら
そりゃ奇跡も起きるわな。
ちなみに俺の最終打席 ドン詰まりのセカンドフライ。