「正常」は「異常」の中にある
昔の人々は
宇宙について研究するか、人間について研究するかの2択があり、
宇宙を選んだという。
そこからギリシャ神話へと続いていったらしいが。
ここでの問いは、なぜ身近な人間ではなく、
はるかかなたに存在している宇宙を選んだのかということ。
物理的な距離で言うと宇宙の方が遠くの存在であるのは間違いない。
ただ観察するとなると、観察する主体が人間である以上、
その作業はとてつもなく難しいものとなる。
要するに観察対象と観察主体が同一であるために生じる難しさである。
故に宇宙を選んだ。
風邪をひいて初めて自分に体があるってことや、
普段は喉が痛くないということ、そして健康のありがたみが分かる。
恋人と別れてその存在の大切さに気付くのと同じ。
今分かったからと言って、この気持ちを今後もずっと持ち続けられるのかと言えば、恐らく答えはNO NO NOである。
どうせすぐに忘れてしまうだろう。
それも人間。
「正常」は「異常」を経験しないと分からない。
*もっと違うこと書くつもりやったのに
書いてる間に忘れてしまって強引に終わらせた。
こんなときどうしたらいいの?
何の曲かわかる?→悲しみのない自由な空へ翼はためかせ
すぐわかった人、すげえ!!
ちょっと思い出すのに時間かかった人、今、上向いてたやろ?
何かを思い出そうとするとき、どうして自然に目線を上にやってしまうのだろう。
別にそこに何かが書かれているわけでもないのに。
何でか分かる?
ヒント。
どうやら人間は情報の約8割を目で処理しているということと関係があるそうである。
(五感の内、目は情報処理のほとんどを占めている。)
一般的に言われている答えは、「情報を遮断するため」である。
何かを思い出そうとするまさにその時にも、目は外界から多くの情報を得ている。
それでは容量不足になり、思い出す作業に負荷がかかってしまう。
外から入ってくる情報を遮断するために、人間は比較的情報の少ないところを見ようとするのである。
(ちなみに、一日の中で目からの情報を一番遮断しているのは睡眠時である。
睡眠中は記憶の整理が行われているので、英単語などを効率的に覚えるためにはやはり睡眠は不可欠だと言える。)
、、、はい。
何が言いたいかと言うと、
今の時代、調べれば何でもすぐ分かるということ。
「思い出す時、上を向くのはなんでやろ」という疑問が不意に俺の中に降りてきて、気になったからその場でグーゴゥ(google)。
5秒で納得のいく答えが得られた。
知識はあるに越したことないけど、全部知っておく必要はない。
調べる習慣があれば!!
バラード歌う時に目を瞑ってしまうのは何でやろ…
自分に酔ってるだけ?
あ、タイトルの答えは「翼をください」です。
鬼門New Open
ついに開いてしまった。
今日から約1カ月、台湾ではお化けがこの世に戻ってくる。
まあ、お化けの夏休みといったところか。
この期間、「してはいけないこと」がたくさんある。
たとえば、
①夜、洗濯物を干してはいけない
→干すとお化けがその服を着る
②夜、口笛を吹いたり、楽器を演奏してはいけない
→お化けが鑑賞しに来る
③部屋の中で傘をさしてはいけない
→お化けが集まってくる
④海や川に行ってはいけない
→足を引っ張られて、その人と交替する形でお化けが復活する
⑤名前を呼ばれても振り返ってはいけない
→連れて行かれる
⑥手術をしてはならない
→手術中に体を乗っ取られる
などなど、、、他にもたくさんある。
この1カ月はあまりいい月じゃないから、
結婚式も行われないし、バイクや車を買う人もいないらしい。
普段はイケイケの兄ちゃんでも、鬼門の季節のルールはわりとしっかり守るらしい。
なんでか聞いてみると、「念のため」だそうだ。
俺は逆に制覇しようと思う。
でも誰も名前を呼んでくれない、、、
言葉が思考を支配する!?
これまで私は、話す言語が違っていても、相手の言ったことを処理する方法は人類普遍的なものであると思っていた。
しかし中国語のような声調言語(同じ音でも発声の仕方によって意味が変わる言語)はどうも少し違った言語処理をしているように感じる。
*声調言語*
「媽、嘛、馬、罵」は全て「マー」という音であるが、イントネーションで意味が変わる。
例えば日本語の場合、食べ物の話をしていて「はし」という音が聴こえると、それはほぼ間違いなく「箸」のことである。
車の運転をしている時に「はし」の音が聴こえると、「橋」のことであるとすぐに分かる。
実際に関西と関東では発音が逆になるが、意味処理はおそらく正常に行われる。
しかし中国語の場合、正しく発音をしないと全く通じないのである。
先日友達と旅行先で換金の話をしていた時に、私は「ドゥイフアン」(換金)と言ったのだが、その友人は全く理解していない様子であった。
そのあと正しい発音をしてもらうと、大して間違っていたようには聞こえない。
仮に間違っていたとしても、それまでお金の話をしていたという文脈がある。
にも拘わらず伝わらなかった。
日本人であれば音がはっきりと認識できなかった場合、文脈を参照して予測しようとするが、ここではその態度はうかがえない。
正しい発音が聴こえてくるのを待っているかのようである。
これは言語の違いなのか、言語の違いが生んだ習慣なのか。
チンパンジー、言葉いらないってよ
人間が言語を操ることができるのは主に、様々な音声を作り出せる生態的構造を持っていたという生理学的な条件と、それらを識別できる知性の2つの条件が備わっていたからと言われている。
たとえば鳥も様々な音を操ることができるが、知性が備わっていないため人間のような言語活動はできないし、知性の高いチンパンジーなどは逆に様々な音を生み出す身体の形態を有していない。
しかし実験と言う人為的な環境が与えられれば、チンパンジーでも言語っぽいものを使用することができるということは確認されている。
それは音声の代わりに、物を記号として使用するという環境である。
チンパンジーが自然な環境の下で言語を使用しないのは、彼らの生活には言語による世界の分化は必要ないからではないかと思われる。
言語は世界をより細かく分化し、詳細に語ることを可能にする道具である。
つまりそのことを遂行するにはより認知的なコスト(負荷)がかかってくる。
種によって生活の条件は異なっており、人間以外の生物にとっては、人間言語のような世界の処理の仕方は恐らくメリットよりもデメリットの方が大きいのであろう。
(↑↑マジでオススメ!!)
進化が種の保存や繁栄を目的としたモノであると仮定すれば、5つの感覚器官に加え言語をも操り、それによって虚構の世界を考えることも可能とした人間は恐らく一番弱い生命体なのかもしれない。
換言すると、生き残るためにはそれだけ多くの情報を処理しなければならないということだからだ。
他の生物に目を向けると、専ら少数の感覚器官のみが発達しているというのが少なくない。(さらに、人間には備わっていない能力を持った動物もいる。たとえば、マムシは赤外線が感知できたり、蜂は磁場を感知できたりする。)
これはつまり、彼らの生存にとって処理する情報量が少なくて良いということを意味しているのではないだろうか。
個人的には、もうちょっと味覚が発達してほしい。。。
ワインの味、全部一緒やん、、、
そろそろ「かわいい」の定義をちゃんとしませんか
この前、居酒屋に行ってビール注文するときに、
ビールサーバーで注文したほうが安くなると言われたのでそうしてみた。
ビールを注ぎ終わると、蛇口のところに少しビールの水滴が残っていて、それが落ちるか落ちないかという状況だった。
それを見ていた女の子が一言。
「かわいい💛」
は!?
確かに前から「かわいい」の定義はそろそろちゃんとしたほうが良いという気はしていたので、白黒はっきりさせたいと思います。
完全主観です!!!
①かわいい Level. 100%
間違いない!
②かわいい Level. 26%
全然可愛くない。
③かわいい Level. 93%
実は有村架純が通っていた高校と野球の練習試合をしたことがあります。
すげーやろ!! ん?
④かわいい Level. 11%
国民を敵に回してしまったか、、!?
演技終了後の表情まで練習してそうで苦手。。。すまんの
⑤かわいい Level. 15%
ラスベガスで首から下おっさんの”キティちゃん”を目撃してからトラウマ。
⑥かわいい Level. 73%
「物」もかわいいの対象ってのがおもしろいよね。
⑦かわいい Level. 51%
微妙~
キャッチ&リリース...&キャッチ くらいかな
⑧かわいい Level. 3%
もはや無。
⑨かわいい Level. 6%
ちょっとUP
「動き」もかわいいの対象になるから難しいよね。
⑩かわいい Level. 0%
もはや可哀そう。
というわけで、かわいいLevel最下位は
みなさんの予想通り「ビニール傘」でした。
やっぱり「かわいい」ってよくわからんな。
そもそも進化の過程でなんで「かわいい」と思う感情が必要になったのかがわからん。
生物から物まで、様子から動きまで、すべてに対して使われる「かわいい」。
全然かわいくない哲学的問題を孕んでいやがった。
どうして人は言葉を持ったのか
「どうして人は言葉を持ったのだろう?心が見えにくくなる。」
『 Why?』-YUI
人間の言語は動物のそれとは異なり、創造的(creative)であると考えられている。
新しく語彙を作ることも出来るし、またその組み合わせも自由であり、
学習したことがないような文さえも作ることができる。
(母親は自分の子どもに「クソババア」なんて言葉は教えないが、子どもはいつの間にかそれを連呼するようになる。)
しかし、この言語で語るという作業は、実は創造的と言うよりもむしろ
シームレスな(切れ目のない)事象を
限定していく(削り落としていく)作業ではないかという気もしてきた。
つまりこういうことである。
我々は常に何かしらの情報を知覚している。
たとえば音楽を聴いたり、景色が見えたり、足で布団の冷たい所を探したり。
目の前にはシームレスな(切れ目のない)「知覚の風景」が広がっている。
「感覚の世界」と言い換えても良い。
五感を通して入ってくる感覚だけの世界。
言語というものが一切存在しなければ、おそらく世界はそんな感じである。
その風景をより良く理解するため、もしくは他者に伝達するために分解していく作業が言語を以て語るということではないだろうか。
我々が「知覚の風景」を言葉で多くを語れば語るほど、「知覚の風景」は削られていき、その解釈の大部分は言語に委ねられるようになる。
その一方で言語による語りが少なければ、「知覚の風景」は依然として眼前に残っており、その解釈はそのままの「知覚の風景」に委ねられるため、時に曖昧になって誤解を引き起こしたりするのではないだろうか。
言語活動とは、創り上げるという創造的な作業と言うよりむしろ、
知覚によって得られる莫大な情報を削ぎ落としていく作業ではないだろうか。